2012年01月02日

伝来の頃の古ソロバン

「伝来の頃の古ソロバン」

1.「大垣 田中家の古製算盤」           

 「埋もれていた古ソロバン」がその姿を現した。

 日珠連「珠算史専門委員会報告(1)」(昭和33年4月)によれば、古いソロバンそのものの製作年代や、その履歴を調査して考証せられた先駆者は≪遠藤利貞≫だそうである。
 その著『机前玉屑』(きぜんぎょくせつ)に「岐阜県下美濃大垣町字廓町、田中巳之助寄贈に係る十三桁、背梁無字、梁上一珠、梁下五珠、珠形矯立円(通俗之ヲ橙子形ト云フ)、製造粗、破損甚し、僅に七軸(現状6桁)を存するのみ、支那の製作に非ず、寛永11年(1634)以前の作と判定される。明治43年(1910)調査」などと記述されている。
 これについて、『東西算盤文献集・第二輯』(山崎與右衛門編・昭和37年3月25日・森北出版)に、遠藤佐々喜の論文『算盤来歴考補遺』(原文:慶應大学文学部・三田史学会発行【史学】・昭和11年7月)が別掲の≪遠藤利貞の由来文≫とともに掲載されている。
 遠藤佐々喜によれば、この算盤の写真を昭和6年10月11日、高井計之助からもらったということである。

遠藤利貞(えんどうとしさだ、1843〜1915)は、1875年東京師範学校教師、官版珠算書・第1号を刊行。1906年帝国(現日本)学士院に勤め、和算書などの蒐集、調査・研究を行い、『大日本数学史』などを著した。
高井計之助(たかいかずのすけ、1875〜1934)は、珠算を堀 梅吉の指導を受け、上京し日本法律学校(日本大学の前身)を卒業後、1905年商科設置と共に講師となる。
 和算史研究の嚆矢であり、多数の稀覯本などの蔵書家としても知られ、没後散逸した一部は「米議会図書館」「東京天文台」に現存するという。山崎與右衛門・安部元章他の恩師である。
遠藤佐々喜(えんどうささき、1876〜1946)は、史学家。明治40年三井家編纂室(現三井文庫)、三井家同族会事務局、三井合名会社勤務。その論文は文献学的といわれる。特に古算盤の研究については他の追従を許さないといわれた。慶長・元和の頃を下るまいと鑑定した30〜40面の古算盤と古書籍は戦災に遭い焼失して現存しない。

 由来書に「毛利重能・吉田光由の名が見える」ことや、委員会報告の「古そろばんに関する研究を遠藤佐々喜・高井計之助以外に知らない」もあり、その遠藤佐々喜も「その年代の推定は同意できる」とあるので、寛永11(1634)年以前ということで間違いないと思う。従って、このソロバンは、現存する古ソロバンの中でも極めて初期の一面であると認めてよいと思う。

 話は変わって、京都に「ニューイクゼン」(日珠連会員・当誌に広告掲載)の社主:久下五十鈴という方がおられて、数年来親交いただいている。
 久下氏は、全珠連の「育全」の後、その業務全般を引き継いで現在も経営しておられる。店舗の2階には、驚くほど沢山のソロバンや種々の文書などが、山積みと表現しても過  
言ではないほど展示されている。
 その久下氏は十年以上に亘って『割算書』・『塵劫記』、特に『塵劫記』(1627年)の著者≪吉田光由≫に興味をひかれて、光由の墓所を探し当て、吉田家・角倉家を訪ねて家系図を閲覧したり、墓所である「二尊院」(常寂光寺の隣)の過去帳に光由の戒名「顯機圓哲信士」を確認された。なにより私が感動するのは、毎月欠かさず数回は、光由と吉田・角倉家の墓所の清掃に勤めておられることである。
 昭和52年10月10日、塵劫記刊行350年を記念して、日珠連・全珠連・日本数学史学会の共催で常寂光寺に「塵劫記記念碑」を建立したが、その30周年法要を平成19年10月21日に、また平成22年11月20日には、「吉田光由に感謝する会」を自費で営まれたのであります。
 その間、かねてからの氏の夢であった、「そろばん館」という「商標登録」を平成19年11月16日取得され、その願望を達成されました。
 久下氏のつぎの目標は、「光由の使用したソロバンが残存するのではないか?」とその探索でした。
 前述の「家系図」や話の中に、「(光由の?)五番目の息子である、儀兵衛は母方の田中家の云々…」という記載があったこと、吉田家第十七代当主、吉田弘氏の「曽祖父の方は田中姓であったらしい?」という言葉などから、「田中」という姓のつくソロバンについて、書籍などを繙いて調べられました。
 その結果ようやく『東西算盤文献集』の「大垣田中家旧蔵品」に辿りつき、その算盤が日本学士院に収蔵されていることをつきとめられたのであります。
 早速、日本学士院に依頼して入手したのが、掲載の写真です。

 このソロバンについては、遠藤利貞、高井計之助、遠藤佐々喜の三氏の外には、
写真については、二冊あって、どちらも暁出版発行で、『日本のそろばん』(山崎與右衛門・竹内乙彦・鈴木久男共著、1968年9月20日)と『算顆随想 続』(山崎與右衛門著、昭和52年5月29日、「日本学士院の古算盤」)である。
説明文としては、
鈴木久男著『珠算の歴史』(初版:昭和39年・富士短大・P.175、増補改訂版:平成12年・珠算史研究学会・P.192)で、「大垣 田中家旧蔵学士院蔵 五珠1 13桁(遠藤利貞発見) 寛永十一年(1634)以前の作(遠藤利貞による)」と、同じく鈴木久男著『古そろばんの研究』(昭和48年8月13日)ではP.130とP.364の各一行のみ触れておられる。
『日本のそろばん』では、 P.57【寛永以前のそろばん】 【写真】とともに、
「大垣の田中家に伝わっていたもので、遠藤利貞氏の自筆稿本≪古珠盤考並本器之由来≫(明治43年:1910)で寛永11年(1634)以前の製作にかかるものと論究されたそろばん。
田中家の祖先田中与惣次は谷幽斎の門弟で達算者であったといわれる。
田中家は宝永3年8月28日に大垣領瀬川村に移住し土地を開いて、名主となった旧家で、当時の当代の巳之助氏はその10代目。」とあります。
 『算顆随想 続』(山崎與右衛門著、昭和52年5月29日、P.77「日本学士院の古算盤」)
【写真】  長さ37.3p 天地 中央14.7,右端15.4p,左端15.1p
  「この写真は私が21歳のとき(T6〜7:1917〜8)、友人の報せで日本学士院にあることを知り、神田淡路町の江本写真館の御主人と共に撮影に行った古い記憶がある。
  偶、数十年見かけなかったこの写真がこの頃見出されたので、いまどうなって居るであろうかとの好奇心から、去る(S51年)八月一日、炎天の中を日本学士院に赴き、受付の娘さんに持参した古い写真を示したところ、直ぐに保管場所から現品を出してきて私の座席の前に置かれた。
  箱の中にある古算盤は六十年近くを経過しても少しも変っていないのが印象的で、私はひとりで微笑(えみ)をもらした。
  この古算盤の桁数が十三桁なので、古い中国算盤十三桁のものと比較してみた。
  全体の長さ、幅に変りがないが、(中国製と)比較して構造や珠の形態が全然違って居る。日本で算盤が製造されるようになって間もなく作られたものと想像されるが、日本的性格を充分に帯びている。
  古算盤に残された十九個のうちやゝ大きいのが、この算盤に始めからあったもので、九個か十個である。その他の珠は他の算盤珠を補充したのではあるまいか。珠は轆轤(ろくろ)で作られたと思うが、初期の算盤珠には一個ずつ鑿(のみ)で作られたのもある。」

 今回、久下五十鈴氏の執念ともいえる尽力と、日本学士院の井上司氏の協力を得て、この算盤が今、日の目を見たということは、珠算界・珠算史研究者にとって朗報であり、ソロバン自体も浮かばれ、遠藤利貞・高井計之助・遠藤佐々喜両の先生方もお喜びと思い「日本珠算」に掲載を依頼した次第です。
 今のところわかっているのは、
      天1地5、13桁(6桁・珠19顆残存)、縦155mm×横375mm×高さ31mm、
梁の幅30mm、桁ヒゴの太さ4.1mm〜4.3mm、釘づけ    
のみで、「吉田光由との関係」は吉田家現当主も調査するということで未詳です。
また、材質その他の考証は遠藤利貞の言「有識諸君ノ考断ヲ待ツ者ナリ」ということですが、わかりましたら報告いたします。


追 記
1444年の銘のある「文安算盤」(三重県伊勢市 吉見家収蔵)についても、久下氏のお世話で11月26日(土)、新しい動きがありました。それについては後刻報告いたします。

「日本珠算」24年1月号所収


 『東西算盤文献集』 第二輯より

   「 算 盤 来 歴 考 補 遺 」          遠 藤 佐 々 喜  

五 古い算盤遺存品の比較 
 三 大垣田中家旧蔵、帝国(現 日本)学士院襲蔵の古算盤
 右の実物写真の複写一葉を、予は、故高井(計之助)氏から、昭和六年十月十一日に恵与せられたものを珍蔵してゐるが、茲には省く。
此そろばんは破損甚だしいが、古拙な作で、桁数十二行、梁上一珠のものであるが、珠形は前田家遺品に酷似して居り、全貌一見して寛永時代の遺物たることが、鑑賞される。この古算盤は日本数学史の著者遠藤利貞氏が明治四十三年に発見されたものである。同(遠藤利貞)氏の自筆に成る本器の由来書を写せば、

   『古珠盤考並本器之由来』
此古珠盤ハ明治四十三年十月 帝国学士院ノ命ヲ受ケ、和算史編纂材料蒐集ノ為メ岐阜県下美濃大垣町ニ到リシ時、同町字廓町ノ住 田中巳(己)之介ノ寄贈ニ係レル者ナリ。蓋シ同氏ノ祖父ハ谷幽斎ノ門弟ニシテ田中与惣次ト曰フ達算者トゾ聞ヘタリ、此家元ト同国多喜郡(現今養老郡)京脇村ニ在リテ富豪ト号ス、宝永三年(今年ニ先ツコト二百四年)八月二十八日大垣領(戸田伯領地)久瀬川村(現今大垣町)ニ移住シ大ニ土地ヲ開キ、同村ノ名主ト為ル(現戸主ヨリ十代前ト云フ)、与惣次氏ハ数代後(八代ノ後ナラン)ノ戸主ナリ、大垣藩士小原鉄心ノ知遇ヲ受ケタルモノト聞ケリ。此古算盤ハ与惣次ノ在世中常ニ使用シタルモノナリ(巳之助ノ祖母ノ言ニ依ル)、今本器ヲ視ルニ位十三桁、脊梁無字、梁上一珠、下梁五珠ニシテ珠形な矯立円(通俗之ヲ橙子形ト云フ)ヲ成スモ、製造粗ニシテ帯アルニ似タリ、破損甚クシテ僅ニ七軸ヲ存スルノミ、加之珠軸摩殺シ、珠モ亦多数ヲ落脱ス、其全体古色蒼然トシテ掬スベシ、熟ヲ古図ニ就テ之ヲ考フルニ、此器支那ノ製作ニ非ズ、毛利重能ガ明ヨリ模ラシ来リタル汝思甫ノ珠盤ヲ模シ、大津ノ工匠ニ命ジテ作ラシメタルモノト同種ナラン。如何ニ之ヲ近シト見ルモ寛永十一年以前ニ在ルコト疑フベクモ無シ。果シテ然ラバ、此器ハ今年ニ先ツコト実ニ二百七八十年以上ノ者トス。憶フニ田中ハ旧家ナリ、其祖先ガ重能光由等当時ノ珠盤ヲ買求テ之ヲ世ニ伝来使用シタルモノナルモ、
惜哉往時ノ弊トシテ之ヲ貴重セズ、粗末不慎ニシテ斯クハ大破ニ及ビシナラン。
生ガ考フル所斯ノ如シ、尚ホ有識諸君ノ考断ヲ待ツ者ナリト云爾。
                 帝国学士院嘱託員
                    後  学     遠藤利貞識   ㊞
   明治四十三年十二月

 右の内、古珠盤に関する学説の部分は、今日に於ては学者に異論をさしはさむ人もあらうが、日本品にしても支那式の味豊かなものである。而してその年代の推定は大体に於て
同意者も多からうと思ふ。
 以上、前田家、片岡家、田中家の三品を以て、私は凡そ十六世紀頃の「支那式日本そろばん」の遺品の一系統と仮想する。

『算顆随想 続』山崎與右衛門著 S52.5.29 暁出版(珠算界 S51.9)

P.77
 「日本学士院の古算盤」 
【写真】  長さ37.3p 天地 中央14.7,右端15.4p,左端15.1p
  この写真は私が21歳のとき(T6〜7:1917〜8)、友人の報せで日本学士院にあることを知り、神田淡路町の江本写真館の御主人と共に撮影に行った古い記憶がある。
  偶、数十年見かけなかったこの写真がこの頃見出すされたので、いまどうなって居るであろうかとの好奇心から、去る(S51年)八月一日、炎天の中を日本学士院に赴き、受付の娘さんに持参した古い写真を示したところ、直ぐに保管場所から現品を出してきて私の座席の前に置かれた。
  箱の中にある古算盤は六十年近くを経過しても少しも変っていないのが印象的で、私はひとりで微笑(えみ)をもらした。
  この古算盤の桁数が十三桁なので、古い中国算盤十三桁のものと比較してみた。
  全体の長さ、幅に変りがないが、(中国製と)比較して構造や珠の形態が全然違って居る。日本で算盤が製造されるようになって間もなく作られたものと想像されるが、日本的性格を充分に帯びている。
  古算盤に残された十九個のうちやゝ大きいのが、この算盤に始めからあったもので、九個か十個である。その他の珠は他の算盤珠を補充したのではあるまいか。珠は轆轤(ろくろ)で作られたと思うが、初期の算盤珠には一個ずつ鑿(のみ)で作られたのもある。

  遠 藤 利 貞  えんどう・としさだ   1843.1.15〜1915.4.20

 旧姓 堀尾、号は春江、春峰、幼名は多喜之助、堀尾家は、浜松・松江城主の家系。
 堀尾家に入ってから、父より算術を、また江戸藩校立教館で学んだ。
 和田寧の高弟 細井若狭より天元・点竄、円理を修めた。
 明治維新の戦乱に際し桑名藩に属した。敗戦後、藩校(立教館:吉野丸学校)の数学教師(和算)となり時勢を判断、洋学を学ぶべく明治5年上京、数学塾(苟新館)に入る。
 後には宮崎学校、東京府師範学校分校、東京府代二中学校等多くの学校の数学教師を勤めた。
 この頃「東京数学会社」の結成にも参加、和算史の編集を立志し、和算の系統とその内容の探求のため原本の筆写に多大の時日を費した。
 『大日本数学史』は明治11(1878)年に着手、16か年の長年月を明治26(1893)年5月に上・中の2巻を、6月に下巻を脱稿した。同月 日本教育会においてその要旨を発表、同会誌第100号に登載した。出版する書肆がなく、辻新次、菊池大麓の助力を得て、三井八郎右衛門の出費にによって刊行できたのは、明治29(1896)年11月のことであった。全篇3巻、一頁15行、一行30字、445頁である。和算史上特筆すべき大業績である。
 翌年より、遠藤は理科大学等の命によって全国各地に出張、研究調査を継続した。
 明治39(1906)年からは、帝国学士院において和算書の蒐集・調査にあたった。
大正4(1915)年4月20日病没した。この時「勲六等瑞宝章」を叙賜された。
この間、増修版原稿を友人・門弟の岡本則録・岡田武松・中村清二にたくして出版を委嘱した。
遠藤の没後、三上義夫が遺稿の整理に努力、大正7(1918)年『増修日本数学史』を出刊した。今日ではさらに平山 諦の努力で増補改訂され、昭和35(1960)年版が刊行頒布されている。 (本田益夫著『筑前高見神社算額と和算史概略』昭和61年6月1日より)
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2011年06月12日

乳井 貢と『版籌(はんちゅう)』


   乳井 貢と『版籌』


 前号で述べたとおり、「青森地方珠算史」にて、≪乳井 貢≫の『版籌』なるものを知り、青森の佐々木信一先生にお願いして、資料をいただきました。
いただいた『版籌』を読み下してみると、それは、【版籌】という筆記具を使って計算をする方法で、漢数字で縦書きの筆算でした。(以下【版籌】は器具、『版籌』は解説書。)

『版籌』について考察するとともに、その側面からみた「乳井 貢」と和算について考えてみたい。前号と重複するところもあるがご容赦くだ さい。

1.計算用具の【版籌】とはなにか。(前号をご参照ください)
(1)「大きさは自由」とあるが、「懐紙に挟んで持ち歩く」とあるから、二つ折であるので、開くとおそらくB5かA5用紙程度と考える。
(2)全体は、漆塗り(朱・白・黄色)の木製の板で、二枚を蝶番でとめたものである。
(3)漆塗り・抽斗つきの古ソロバンがあるが、これは屋外で使用するとき、抽斗(裏板)を引き出して、計算の結果を矢立の筆でその裏板に記録し、用が済めば雑巾などの濡れ布で拭きとる。これと同じ要領で使用する。明治の頃の学童が使用した「石盤」と同じ用途である。
  「石盤」:粘板岩の薄板に木製の枠をつけて、蝋石などの石筆で文字・絵などを書くようにしたもの。布で拭くと消える。明治期に学童の筆記練習用に使われた。
(4)漆塗りのものを復元できればと思ったが、ラミネートで作製すると水性ペンで書いたあと布で消して使用できる。

2.『版籌』〔天明五(1785)年・乳井 貢著〕の目 次
      版籌用法
      除  法
      乗  法
      累  法
      開 平 法
      開 立 法
    ◎この時代の算書の通例として。加減は省略し除法から始めている。

3.『同文算指』と『暦算全書』の乗・除法
   『版籌』の前に『同文算指』と『暦算全書』の乗除の計算方法について掲げておきたい。 
(1)『同文算指』(マテオ・リッチ口述・李之藻記述・1614年)の乗・除      
  4300678×600394=2582101267132    1623149÷289=5616…125
         四三〇〇六七八         一       
  六〇〇三九四       一一二
        一七二〇二七一二       二五四一
       三八七〇六一〇二        陸七〇六
      一二九〇二〇三四         四弐八八二 
     〇〇〇〇〇〇〇〇          五六参九七
    〇〇〇〇〇〇〇〇          壱八〇七七五五       二八九
   二五八〇四〇六八           壱陸弐参壱肆玖( 五六一六 一二五     
   二五八二一〇一二六七一三二       二八九九九九     
                       二八九八八
                        二八二
                         二

◎乗法は、漢数字を使用しているが現行の計算と同じである。
◎除法は、中世イタリアの「ガレー法」と同じである。末尾の分母・分子はガレー法と上下が逆である。この方法をイギリスでは「抹消法」という。
    *ガレー法は、珠算での計算の「盤面数」を記したものであるが煩雑で、途中で休むと分からなくなったり、誤算も多かったので次第に廃れていったということである。
◎九去・七去検算法がでている。
   ◎余乗法(1桁の掛け算)が出ている。
 ◎『同文算指』は「禁書目録」に含まれている。
(2)『暦算全書』(梅文鼎著・1723)の乗・除
   30058×905=27202490 86680÷88=985
     得
     二 二                  減 得   実 
     七 〇七○ ↓                〇 両
     二 〇〇〇〇一↓ 実            七 九 銭 八 八 〇
     〇 四〇〇〇〇五 三          六七二 八 分 八 六 七〇
     二 七五〇〇〇〇 〇         四六四二 五 厘   六 四四   
     四  二〇〇二〇 〇          四〇四   法 八 四〇  
     九    〇四五 五            〇     〇
     〇      〇 八
九 〇 五法
   ◎乗・除ともに、漢数字を使用し、且つ縦書きである。
   ◎現行と同様に、分子積(九々の答)を全部書いている。3×5=@D
   ◎『同文算指』と同様の、九去・七去検算法が出ている。
 
4.『版籌』における、除・乗法
   つぎに、『版籌』の除・乗法であるが、他の和算書と同様に、除法、乗法の順に述べられている。(前号参照)

5.『版籌』考案の背景
◎社会が、読み書きや計算の能力を必要とした。
   兵農分離の結果、武士・領主層は都市居住となり、領主の村落支配は、上からの触書・法度の伝達、下からの報告・訴状の提出など高度な文書処理能力が必要になった。
  一方では、大量の年貢米の商品化により、全国的な規模での商品流通が盛んになって、計算や測量の能力が必要であった。
 乳井貢は、数学についてつぎのようにいっている。
「人は、生まれて死に至るまで、一日として数を云わざることなし」
「士農工商共に数を学んで、その徳を知るべきことなり」
 ◎ソロバンを学べばよいが、前号の『初学算法』で述べたように入手が困難であった。

6.『版籌』の内容について
 『版籌』で述べられているのは、横書きと縦書きの違いはあるが(暦算全書の影響か)、正に現行の「筆算」そのものである。
乳井 貢の発想について「四つ玉ソロバン」の提唱だけがクローズアップされているが、私はむしろ『版籌』で取り扱っている「筆算」とその前提としての「位取り記数法」を挙げたいと思う。
 日本で最初に現在の「筆算」に相当するものを、ほとんど独自に【版籌】なる用具を考案し、実用に供したのは≪乳井 貢≫であることを、声を大にして訴えたい。
 
7.筆算について 
(1)中国での筆算
当時の中国では、筆算のことを「写算」といった。『算法統宗』(1591年)の巻之十七では『写算』または『鋪地錦』(ここでは、十を一□と表示、□=空白のこと)といって、イギリスのジョン・ネピアが著した「ネピア・ボーン」といわれる「格子掛算」が記されている。
 しかし、『写算』は、ただ単に乗除の計算をして答を求める作業だけであって、インド数字の「位取り記数法」を意識した筆算としては、つぎのような経過をたどってわが国に伝わったのである。
 1583年キリスト教伝道のため中国入りした、マテオ・リッチ(中国名:利瑪竇)は、ローマ学院で学んだ知識の一つ数学を李之藻に教え、二人で『同文算指』(1614)を著した。それらを咀嚼した梅文鼎は1723年『暦算全書』を著した。
 『暦算全書』は時をおかず1726(享保八)年には『数度衍』(方中通・1661)と一緒に、渡来した。
時の将軍吉宗はこの訳述を建部賢弘に命じ、賢弘はこれを高弟中根元圭に託した。賢弘・元圭は1733(享保十八)年その任を果たし奉呈した。
 『版籌』の序に「梅 九定が『暦算全書』に簡法筆算の法あり…」とある。
『暦算全書』24冊の内の19冊目が『筆算』で20冊目は『籌算』であるが、ここで述べられている「籌算」は「ネピア・ボーン」を改良したものである。
(2)和算での筆算とは
大矢真一著(数学史研究 31号)によれば、
「算木で方程式を立てるまでの過程を全部頭の中でやらず、次々の変化を紙の上に書いておくことである。こうすれば立式は容易になる。それを考えたのが関孝和の筆算である。のちにこれは『点竄(てんざん)』と呼ばれた。和算における筆算はこのような道筋でうまれたのであるから、数の計算で行われなかった。それはソロバンや算木を用いられたのである」
(3)現在でいう筆算とは
算数教材研究講座『数と計算』金子書房(昭和34年2月10日) P.149
「暗算における困難点は、その計算の過程で数の記憶を継続せねばならぬことである。この大きい数、複雑な数の計算を必要とする場合、繰り上がり、繰り下がりが、心力を労しないで、容易に、能率的に、不必要な記憶はできるだけさける方法が筆算といわれるもので、視覚的な方法を用いて、複雑な思考過程をできるだけ単純な計算過程に分析して、より能率的に式、記号、計算の法則、記数法等の数理に基づいて演算を行う。これが筆算である。……この筆算形式のよる加法・減法は、それだけにとどまらないで、さらに乗・除からより高次の算法へ、さらに文字の演算に発展し、いわゆる高い数学の演算に関連をもつものである」
(4)筆算優位説
後年ではあるが、『西算速知』(1857・福田理軒著)の「凡例」につぎのように述べられている。
「筆算は、弾珠(尋常の算珠盤なり)或は運籌(籌さんをいふ)等によらず帋上(紙上)に書記し其数を求る術にして、除歌を用ひず九々の声をも知らずとも、加入減去の技より帰因乗除の業、日用堅務の諸法をも時日を費さず一日にして会得し一筆半楮を以て自由に用便する法なればよく熟練の上においてはたとへ幽僻の地域にして紙筆に乏しくとも地上に画して其数を得べし、故に行路の間航海の上軍陣の前或は馬上輿中に在ても器具を用ひず、胸中に其要を得ること他術の及ぶ処にあらず」と筆算の優位性を説いている。

8.『版籌』での「位取り記数法」
 当時の多くの和算家も、ソロバンの布数法が位取り布数法であることから、数の把握にあたって、なんとなく位取り記数法的認識はあったと思われるが、
 @ソロバンも算木も横表示であって、記録する数字は縦表示である。
 A天二地五のソロバンでは、一桁に15まで、算木では一桁枠に限度なく布数できる。
このことが、位取り記数法の確立まで及ばなかったのではないか。
 そのような時代にあって、乳井は
 @縦書きの位取り記数法を採用している。
 A零を{〇}で表示している。(算法統宗では空白である)
 B掛け算の総九九(81個)を使用している。
 C帰除法の全盛時代に、九九を利用した筆算(商除法)を採用している。
 D定位法の重用性を徹底して説いている。

9.位取り記数法とは、
(1)特定の数を表す数字または数詞を定める。
  漢数字の一から九までの9つの数字と、〇(ほし)を使用。
(2)零(0)の概念を理解する。
* 空位を示す記号としての零(0)
* 演算の対象としての零(0)
   数としての0の性質(A+0,A−0,A×0など)
  (3)記数法の理解
    各位格に@でいう数字を割り当てて、同じ数字を繰り返し用いて任意の数を表せることを理解する。
      例  十を一〇    
         三十を三〇   三十三を三三    
百を一〇〇   百五を一〇五
         九百九十九を九九九  千を一〇〇〇
  (4)十進法と位取りの理解
    ある大きさ(十進法では十)に達すれば、一まとめにして位を上げ、上位の一として扱う。
      例  九たす一は、一〇ということ     
         九十九たす一は、一〇〇ということを知る
   
10.零の数学的性質         
  (1)無の0     
    メソポタミアにおいて、シュメールの時代からあった。
  (2)空位の0
    位取り記数法において、空位を表す記号としての0
    古代インド、マヤ文明、古代バビロニアでも使用。
  (3)演算の対象としての0
    7世紀のインド人ブラーマグプタの書物(628年)
    この時点をもって「0の発見」といわれる。
      例  0匹、0箇
  (4)基準としての0
    正負の境としての0
      例  0℃  数直線でのO(オー)
 *零は、現在でもこれらの側面を包含して使用されている。

11.『初学算法』(安永十:1781年)における、乳井 貢の主張
乳井の主張は、往々にして「五つ玉」から「四つ玉」にすることと錯覚しがちであるが、中国流でいえば、「七珠ソロバン」から「五珠ソロバン」に改革することを提唱したのである。このことは、当時としては思いもよらない画期的なことであって、世間には受け入れられなかったと思われる。そして、普及しなかった理由としては、
@乳井の考えがあまりにも画期的であったこと。
A乳井が津軽在住であったこと。(移入より、移出面で)
Bかてて加えて、乳井が専門の算家でなかったことがあげられると思う。
 ご承知のように、小学校で「四つ玉ソロバン」が採用されたのは、160年後の昭和13年の『尋常小学算術』第四学年児童用下(緑表紙)からであり、一般に普及したのは、それからまだ10年後のことである。それと呼応したかのように算法も、割算が「帰除法から商除法」に、その後定位法の関係もあって「頭乗法から新頭乗法」に移行した。
 大阪では、森友 建先生(前日珠連理事長・大珠協会長)を中心にした委員の方々が「外国人指導」を実施しており大変な功績をあげているが、もし現在でも「四つ玉ソロバン」と「商除法」でなければ、合理主義の欧米人には決してすんなりとは受け入れなかったであろう。また、現在の「暗算の普及」もなかったと考える。
 博学の人であり、経世家あった≪乳井 貢≫の、その優れた洞察力は二百年後を予見していたのであろうか。

12.乳井 貢の評価
(1)博学の人であった。
   『版籌』の序文に「河図・洛書」のことに触れており、「太初の聖人は教を数に始めて河図を示す、次いで洛書を教ゆ、幼童の時より数を教えしとは礼経に見えたり、孔子 易に曰く 一、二、三、……八、九、十 是を合わして五十五変化を成して鬼神を行(や)る所以なりとのたまえり」とあって、『初学算法』にも同様の言葉がある。
   他の著作からも推して、和・漢・竺の書に精通していたらしく、『四書・五経』『礼経』『易経』なども渉猟していたのではないかと思う。
   梅文鼎の『暦算全書』(1723年)は、1726年長崎に渡来、中根元圭が訳して、建部賢弘が時の将軍吉宗に奉呈したのが1733年である。
   それから50年ほどの間に入手し、理解していたのである。もっとも、乳井が特に好んで傾注したものに「易学」があることから、ぬべなるかなとうなずけるところである。
(2)算学に精通し計算に堪能であった。
  @版籌での数の取り扱い方をみると数論に精通していたことが強く感じられる。一部地域での「亀井算」を除いて、帰除法全盛の時代に九九の「六五三十」と割声の「六五八十二」とをとり違えるおそれがあると述べている。
  A開平・開立については、他の算書と異なる解説である。
  B定位法の大切さを力説し、徹底して説明している。
(3)参考にしたであろう算書
  @暦算全書、割算書、塵劫記、数学端記をはじめ亀井算も知っていたのではなか。 
A方円秘見集(多賀屋経貞著 1660年)
    「勘定に十の心得」   
    一 心をしずめること
    二 実法を思案のこと
    三 かけた方がよいか、わった方がよいかを考えること
    四 算を静に行なうこと
    五 わりおさめを覚え考えること
    六 かけ割言葉づかいに心をつけること
    七 桁違いをせぬこと
    八 わり算はかけて、かけ算はわって検算をすべきこと
    九 はじめにおくときも、わりおさめた後もとび桁に注意すること
    十 読み違い、書き違いのないように心づけること
  B因帰算歌(今村知商著 1640年)
   「かけさんは 一桁九因長桁は 因乗なれば よせのせそする」
   「かけさんは よせのせそする算なれは みしかきかたを よせのせもする」 
   (乳井・初学算法)「乗にはどちらを法にしてもよし、法は左実は右に置なり、
右を実と云、左を法と云、法は桁数の少なきを用ゆべし」
  C算法勿憚改(村瀬義益著 1673年)
   「九九は是 掛算なれば長短の みぢかき桁を法に用いよ」
   「八算のこえをわすれし其のときは くくにてさがし出すべき也」(商除法)
   「見一のおかれぬときは 作九一 過(すぎ)は一進 たらずは倍一」
  D数道初術前集(東房軒著=田中佳政の門人 1703年) 
   『修行の大意十か条』―6―
   「数の道は学ばずともよいかの問いに対し、怒って曰く、上古君臣の差別もなく、文字の無いときはそれで良かったであろうが、五倫の道、礼儀の法、文字が作られてから諸道も興ったのであって、人とうまれて飢寒からず渡世ができる。尊きと卑しきとの違いこそあれ、それぞれの数学があるので学ばねばならぬ」
『初学算法』『夫数は士の算有り 農人の算有り 職人の数有り 町人の数有り」
(版籌)「夫数は学ばずんばあるべからず、人生まれて死に至るまで一日として数を云わざることなし、上は天子の尊きより、下は庶民の卑しきまで時々数の用なきこと能ず」 
(4)思考が合理的であった。
  @命位を覚えなさい。
   ただし、大は「兆」まで、小は「沙」まででよい。それ以上知りたければ、諸書を見て自分で調べなさい。(現在でも、これで十分である)
A九九は暗誦しなさい。
   一位と十位の二桁だけである。
  Bかけ算の法は、桁数の少ない方を置きなさい。
  C位取り(定位法)が大切である。
   盤面だけ合っても、位取りを知らなければ欠けた計算である。
  D数字も考案している。『版籌』の最後に暗瑪と思われるものを掲載している。

13.【版籌】が普及しなかった理由
  @乳井 貢が和算家ではなかった。
  A弟子が算学の継承者にならなかった。
  B弟子たちに基礎的な数の素養がなかった。
  Cソロバンが普及する以前に考案されておれば、可能性はあった。
   ソロバンでは、割声により、特段の思考を要せず機械的にできた。
  D一般には、位取り記数法のしくみの理解が困難であった。
  E必要度が低かった。
  Fとっつきにくかった。
   憶える。考える。習得までが苦痛であったと思う。
   明治5年の学制頒布後も、「洋算」移行が困難で、珠算の併用を認めたことからも容易に想像できる。

14.『版 籌』について
薮内 清著『中国の数学』に「『暦算全書』と日本の和算との比較で興味があるのは、『幾何補編』にみえる《大円容小円法》である。」とあって、一方で「もちろん時代的にみて、和算がこの種の問題で梅 文鼎の影響を受けたことはないであろう」とある。
しかし、 乳井 貢の『版籌』は『暦算全書』の影響があったと思われる。
それは、つぎの序文の「『暦算全書』の著者を梅九定」といっていることと、「珠盤」をそろばんと呼んでいる(『初学算法』では「そろばん」といっている)ことである。

15.観中算要〔文化十四(1817)年・乳井徳弥建徳・貢の子孫によって出されたものであろう(佐々木信一先生)〕については、『観中算要』を平易にしたのが『初学算法』であるということなので、目次のみ掲げることにします。
目 次
      定 位、本 位、
配 位、
乗除位の法、
平 方、
立 方、
差 分、衰分、
損 得、盈 虚、
度 量

 このように、乳井 貢は生涯を通して庶民の生活向上のため、自己研鑽に裏打ちされた豊富な見識による常に新しい発想の実現に尽力したのである。しかし、革新にはこれまた恒常的に反対勢力が存在して抵抗してくるものである。そのたび重なる謫により二度にわたって失脚するも、復活してその生涯を全うされたのである。
 その優れた「進取の気性」と種々の困難に立ち向かう「精神力」には、いよいよ感嘆景仰するところであります。
                              (「珠算史研究」第56号所載)

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2010年07月25日

『同文算指』の引き算

『同文算指』の引き算

◇ 中国の算術書に『同文算指』(1614年)がある.
 中国に西洋の数学を伝えたのは.ローマ学院で学んだイタリア人でゼスイット会士・マテオリッチ(Matteo Ricci 中国名・利瑪竇・1552.10.6〜1610.5.11)である.
  マテオリッチは1583年中国広州の西方にある肇慶(ちょうけい)に入り伝道に従事した.
  ドイツの数学者クラビウスに学び,クラビウスが撰した数学講義をいくつか中国にもたらした.徐光啓とともに『幾何原本』(1607年)全六巻を漢訳し,李之藻とともに『同文算指』(1614年)を漢訳している.この『同文算指』は,主にクラビウスの『実用算術概論』(1583年)と『算法統宗』(程大位・1592年)にもとづいて編訳されたものである.これがヨーロッパの「筆算」をはじめて紹介し,西洋数学が中国へ伝来した最初であるといわれ,後の算術に大きな影響を与えた.ところがわが国に舶来して後どちらも寛永七(1630)年の「御禁書目録」に挙げられている.
  しかし,その後の算学者梅文鼎・方中通などは「西洋の学問より,中国の学問の方がすぐれている」という先入観があったらしい.明治維新時の和算家の考え方に似ている.

◇ カジョリ著・小倉金之助訳『初等数学史 下』に掲載されている「イギリス算術教授法」として,つぎのような記述があった.(抜粋)
   「ドイツでは“オーストリア法”と呼ばれるもので,これはオーストリア人が最初に採用したものである.例えば 76−49 にあっては“9と7で16,5と2で7”と唱えるのである.実際7から1を引く代わりに、4に1を加えることは,ルネッサンス時代には普通の方法であった.アメリカのある代数教科書では,“オーストリア法”の原理による減法を説明している.」
  この中で「実際7から1を引く代わりに,4に1を加える」の部分が理解できなくて,疑問に感じていた.
  『月刊 言語』Vol.23 No.10所載のエッセイ『日本の算数の不思議」で,フランス・ドルヌ氏(France Dhorne:日仏対照言語学)が,  
  81−65=16 の計算の場合を,
「1から5を引くのは不可能なので,1のけたは10の桁に 『10の単位を一つ貸してくれますか』と頼みます.10の桁は『はい,どうぞ』.1の桁の計算(11−5=E)を済ませたら,1の桁は10の桁に『はい,ありがとう
』と言い,借りた単位を返します.そうすると,引く10の桁の6は,貸しておいた1単位分増えます(60+10=70).80−70=I その結果 81−65=E+I=16 となる.」
  と説明しているが,やはり理解できない点があり疑問が残った.
◇ 最近,中国の筆算の歴史などを調べている中で『同文算指』に目を通してみた.漢文であるので不安があるが,「減法」を詳しく見て,前述の疑問が解けたのである.

 まず,『同文算指』の特徴を列挙すると,
(1)大衍式として,単数から十・百・千・万・億(万万)・兆(万万億)京まで「万万進」で記載している.
(2)加法.現在われわれが演算している縦書で漢数字を使用しているだけである.
(3)乗・除法はつぎの通りである.
  4300678×600394=2582101267132    1623149÷289=5616…125
         四三〇〇六七八         一       
          六〇〇三九四      一 一 二
        一七二〇二七一二      二 五 四 一
       三八七〇六一〇二       陸 七 〇 六
      一二九〇二〇三四        四 弐 八 八 二 
     〇〇〇〇〇〇〇〇         五 六 参 九 七
    〇〇〇〇〇〇〇〇        壱 八 〇 七 七 五 五                           二八九
   二五八〇四〇六八         壱 陸 弐 参 壱 肆 玖( 五六一六                     一二五
   二五八二一〇一二六七一三二      二 八 九 九 九 九  
                           二 八 九 八 八
                           二 八 二
                             二

  ◎乗法は,上記のように漢数字を使用しているが,現行の計算と同じである.
  ◎除法は,中世イタリアの「ガレー法」と同じであるが,末尾の分母・分子はガレー法と上下が逆である.この方法をイギリスでは「抹消法」という.
 (5)九去・七去検算法が出ている.
 (6)1桁の掛け算・「余乗法」が出ている.
  9×8=(10−1)×(10−2)=90−20+1×2=72
  又は  80−10+1×2=90+80−100+1×2=72
  8×8=(10−2)×(10−2)=80−20+2×2=64
又は           =80+80−100+2×2=64
  7×6=(10−3)×(10−4)=70−40+3×4=42
又は  60−30+3×4=70+60−100+3×4=42
3×3=(10−7)×(10−7)=30−70+7×7= 9
又は  30+30−100+7×7= 9
  が記載されているが,これは「指算」に通じていると思う.
◇ では本題の『同文算指』の「引き算」の演算方法を示してみよう.
  「第二図 亦係以少減多但中有上数小下数反大者須立借法 」
とあって「少数から多数を引く」例題として
  4 500 026 304 827−2 929 034 567 892= 1 570 991 736 935  が記されている.
四 五 〇 〇 〇 二 六 三 〇 四 八 二 七
二 九 二 九 〇 三 四 五 六 七 八 九 二
一 五 七 〇 九 九 一 七 三 六 九 三 五
            ↑         ↑ ↑ ↑ ↑
           ㋭         ㊁ ㋩ ㋺ ㋑
(1)下位より1桁ずつ計算する.
(2)1桁毎の演算方法が全桁にわたって示されているが,抜粋してみると,
㋑ 7−2=5
㋺ 二不能減九借作一十二減九得三進位還
   2から9が引けないので,10を付けて12から9を引いて3残る.
㋩ 因前借過一今作八減九又不足仍借作一十八減九得九進位還
   上数の8から(下数+1の)9が引けないので,10を付けて18から9を引いて9残る.
㊁ 因前借過一今作四減八又不足借作一十四減八得六進位還
   上数の4から(下数+1の)8が引けないので,10を付けて14から8を引いて6残る.
㋭ 前借一今作〇減一〇無可減借作一十減一余九進位還
   上数の0から(下数+1の)1が引けないので,10を付けて10から1を引いて9残る.

このように,われわれが学んだ引き算の考え方と異なっていることを知って驚いた.
そこで,私蔵の「筆算」関係のもの12冊調べてみたが,この考え方の書は、『同文算指』のほかにはつぎの3冊であった.
1.『暦算全書・筆算』(梅文鼎・1693年)数を漢数字の基数で縦書き.
2.『筆算提要・完』(伊藤慎蔵訳・弓場五郎校訂・1867年)
3.『小学筆算教授本・巻一』(米国 タウビス著・山田正一訳・1873年)
 2.3.ともに翻訳本ということから西洋ではこの方法であろうことが推測できる.
 フランス・ドルヌ氏のエッセイにあるように,フランスではこの方法であり,フランスの人にも確かめた.ブラジル人,チリ人は日本と同じであることがわかった.
 われわれが習った筆算では,借りた1を被減数から引いて演算するが,これは古くからの伝統である「算木」「ソロバン」によるものであろう.また,西洋の方法は,西洋諸国における,「つり銭」との関連が想像できる.(どちらが先かわからないが)
 このような微妙な考え方の違いがあり,400年以上も経てこのようなかたちで確認できたことを愉快に思った.
posted by そろまんが at 16:26| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする