2012年03月12日

「吉見家旧蔵・文安算盤」について

「吉見家旧蔵・文安算盤」について

                           大阪珠算協会  村 上 耕 一

平成23年11月26日(土)三重県伊勢市の吉見康夫氏と久野佳奈子氏父娘が「京都市学校歴史博物館」(京都市下京区)を訪れ、永年わたって吉見家が所蔵してきた「文安算盤」を寄託された。
これは、『日本のそろばん』(暁出版)を初めとして、古算盤の写真があると必ず掲載されている「吉見家所蔵の文安算盤」で、1月号の「大垣 田中家旧蔵算盤」とともに珠算界にとって朗報です。

「ソロバン伝来の時期」について
ソロバンがいつ頃中国から伝来したのかは、いまもってわからない。
鉄砲伝来のような事件や時計・眼鏡等のような献上品ではないので、はっきりとした年月は今後もわからないであろう。また、売買対象の商品でもないので、おそらく何艘かの貿易船が何度か往来している間に、長崎か堺で日本人の目に留まり譲り受けて見よう見まねで作って拡がったのではないかと思う。
したがって、ソロバンの伝来時期を推測するには、関係する文献等の史料によるより仕方がないのである。
ようやく、文禄の朝鮮の役(1592年)の時代になると、ソロバンの実物が残っており、絵画もいくつかあって、辞書には「Soroban」という語がでてくるなどが集中していて、それ以前の記録にはソロバンという言葉は見つかっていない。それ以前に伝わっていたには違いないが、その証拠史料は今のところ全くない。
前記の史料から推して、1570年には実物もソロバンという名称も日本に存在していたというのが通説となっている。
 
「吉見家旧蔵の文安算盤」について
『本器は江戸時代の末より、三重県伊勢市(旧宇治山田市)の吉見家に伝わる。
初代 吉見新平は天保2(1831)年に生れ、成人の後分家、「かまぼこ製造業」を生業とし、【蒲新】を屋号とした。
「骨董蒐集」を生涯の趣味とし、明治維新直前の頃本器を入手した。
新平50歳の頃の明治14年、東京上野公園において開催された「第二回内国勧業博覧会」に出展したことが、本器が世に出る端緒である。
二代 吉見千代蔵は【蒲新】を承継するも、大正6年59歳で病没した。後継者の新一が若年(12歳)のため、已む無く【蒲新】は廃業となる。
三代 吉見新一は、明治38年に生まれ、若年より趣味としていたカメラを活かし「写真館」を経営した。新一は昭和63年84歳で没した。
その後、公務員であった四代目 吉見昌子・康夫夫妻の手を経て長男保・長女佳奈子兄妹が引き継ぎ現在に至った。
今般、京都在住「ニューイクゼン」社主・久下五十鈴の尽力により、吉見家の希望を勘案し、「京都市学校歴史博物館」にその保管を寄託して、斯道の貴重な古算盤を永く世に伝える運びとなった。
因って、後日のため本器寄託の覚書とする。』【吉見家旧蔵・文安算盤】寄託の覚書より

「本ソロバンの由来」
上記覚書にあるように、吉見家所蔵の「文安元年」の銘のあるソロバンが世にでたのは、明治14(1881)年東京上野公園で開かれた「第二回内国勧業博覧会」で、慶長十七年(1612・大津市片岡庄兵衛蔵)長崎舶載古算盤の写真とともに展示されたことからである。
その後、大正15(1926)年11月、貯金局編纂『珠算の鑑』に口絵があり、説明文が載っているのが初見である。したがって「文安元子(1444)年」の銘があることから、大正時代までは、「現存最古の算盤」として扱われていたのである。
その後、明治末期になって、帝国学士院嘱託の三上義夫がこの存在を斯界に知らせるとともに、大正11(1922)年には三上は現地で実物を観ている。その頃神宮皇學館々長上田万年(かずとし)が同行して貼紙を見て「其字体は戦国時代を下るものではない」と鑑定している。
一方では、その年代について疑問を抱いた人が居り、昭和3(1928)年、三井文庫勤務の史学家遠藤佐々喜は伊勢の郷土史家大西源一よりその写真を入手し研究の上、昭和6(1931)年6月慶應義塾大学内・三田史学会発行の「史学」第10巻2号において「算盤来歴考」を発表した。
相前後して、昭和3(1928)年沢田吾一が「日本数学史講話」、昭和6(1931)年10月5日高井計之助が「算盤雑話」を講演。昭和11(1936)年7月遠藤佐々喜が再度「算盤来歴考補遺」著し、昭和16(1941)年6月7日三上義夫は、その著『我が国文化史上より見たる珠算』などに発表した。

「吉見家文安算盤に関する文献」(前記を含む)としては、
1.「珠算の鑑」 貯金局 T15.11.15
2.「日本数学史講話」 沢田吾一著 S3
3.「算盤来歴考」遠藤佐々喜著慶應大学文学部内三田史学会「史学」第十巻第二号S6.6
4.「算盤雑話」 高井計之助著述 S6.10.5
5.「珠算道講話」高橋明夫著 S8.8.10、目黒書店
5−2.5の改訂版「珠算教育概論」 S46.12.5、暁出版
6.「ソロバンの今昔」安部元章著 S11.5
7.「算盤来歴考補遺」 遠藤佐々喜著 「史学」第十五巻第二号 S11.7
8.「日本珠算史」 溝江 清著 S15.11.20 同文館
9.「我が国文化史上より見たる珠算」 三上義夫著述 S16.6.7
10.「そろばん物語」 竹内乙彦・溝江 清共著 S18.12.30 同文館
11.「珠算史概説」山本長五郎著  抜刷  戦前?
12.「新珠算法」 稲垣儀一著 S24.7.10 ダイヤモンド社
13.「珠算史専門委員会報告(1)」日本珠算連盟 S33.4
14.「そろばんの歴史」 鈴木久男・戸谷清一共著 S35.7.25
15.「東西算盤文献集」 山崎與右衛門編 森北出版 S37.3.25
16.鈴木久男著「珠算の歴史」 初版:昭和39年・富士短大・P.172
16−2.16の増補改訂版:平成12年・珠算史研究学会・P.189
17.「日本のそろばん」山崎與右衛門・竹内乙彦・鈴木久男共著 暁出版S43.9.20
18.「珠算事典」 珠算事典編集委員会 S45.4.30 暁出
19.「日本珠算思想史要論」 中橋貞造著 S56.12.10 育全
20.「図説そろばん」 竹内乙彦著 協立出版 H1.1
等があるが、確定した説はない。

「吉見家旧蔵・文安算盤」の 形 体
桁  数         25桁
た  て        143o
よ  こ        544o
高  さ         31o
  軸           丸竹
玉  数  梁 上     2顆    梁 下     5顆
底  板        引き出し
裏  板        はめ込み
梁  面       生地のまま  黒漆書き  
単  位     米と金と銀(目)
玉 の 形     大部分は、凸錐玉
        左方の5桁ほど補填されていて、平錐玉
材  質       全部 紫檀製(軸を除く)
欠  落  右から11桁目と左から7桁目
 (7桁目の珠7顆は今後も吉見家で保存)
ほ  ぞ      
▲ 
 


 ▼




 「このソロバンの伝来または製造の時期」についての意見。
疑問点
 (1)北畠家に関する記載に疑問があり、史実の証明がない。
 (2)定説の年代より大きく差がある。「ソロバンという言葉や記録(実物・絵画・辞書等)が16世紀末に集中しており、それ以前には全く見出すことができない。」
 (3)全体的に、「寛永十一年」の銘がある古算盤に酷似している。
 (4)墨書に「十露盤」という表現がある。
中国製ではないかとの意見(溝江清、安部元章)
 (1)軸に丸竹(細い竹のまま)を使用している。(丸竹使用は、中国製か長崎製が多い)
 (2)珠の形が丸みを帯びている。
等種々の説はあるが、
神宮皇学館元館長の「其字体は戦国時代を下るものではない」という鑑定があり、古算盤の研究について右に出る者はなく他の追従を許さないという、遠藤佐々喜も「元和・寛永(1616〜1642)のものであろう」と推定されていることを根拠にして、
このソロバンは、現存する中でも極めて初期の貴重な古算盤であると認めるものである。

「吉見家旧蔵・文安算盤」寄託の経緯
京都在住の「ニューイクゼン」社主・久下五十鈴氏は平成20年7月6日、資料を携えて伊勢市の吉見家を訪問した。氏が数年来探している「吉田光由ゆかりの算盤」(前号に掲載)と同年代の古ソロバン実見するためである。
訪問して吉見家の現当主「吉見昌子」氏は談話の中で、「今までに多くの方々が来られたが、来て見て帰られるのみで、このソロバンの資料はおろか由来等を教えてくれる人は皆無であった。たまに○○万円で譲って欲しいという人もあったりした。詳細もわからないまま、先祖伝来の大切なソロバンということのみで、今まで保管してきた。」そして「今後の保管について思案している。」という事情が分った。
そこで、久下氏は、
@ソロバン教育の発祥の地「京都」で、A常設して「誰でも、いつでも見られる」、B公立の博物館、C「吉見家に負担がかからない」等の条件に叶った施設を探した結果、
「京都市学校歴史博物館」と折衝して、吉見家の了承を得て、今回の一連の動きとなったのである。

≪代表的 文 献≫
東西算盤文献集 第二輯 所収
三上義夫 著述「我が国文化史上より見たる珠算」(昭和16年6月7日)より
Р.78         
 伊勢の山田にある古算盤は文安元年の在銘のもので、其記載年代から云へば甚だ古いのであります。
 是は大正十一年に伊勢に行きまして、古い時代に博覧会に出したことがあると云ふのを手懸りに苦心して探し出して、やっと見当ったのでありますが、初めには私も在銘通りのものかとも思ひましたけれども、大分新しいものだと云ふ人もあります。
新しいと言っても余り新しく見るのはどうかと思ひます。其蓋の裏の内側に書いてある文安云々の文字を、上田万年先生が神宮皇学館の館長を勤めて居りまして御覧になったのですが、其字体は戦国時代を下るものではないと云ふことを私へ話された事があります。字体の年代の鑑定などは私共には判らないし、わたしが見出した頃には他の古算盤を多く見ても居りませんで、年代の鑑別なども判然としなかったのを遺憾に存じます。

高井計之助 著述『算盤雑話』(昭和6年10月5日)より
P.163
 現存せる古算盤に就て調べて見ましたら、伊勢国宇治山田市に文安元年(1444)在銘のものがあると聞きまして、先年伊勢へ参りました節、宇治山田市に住む友人木村氏に其の所有主を捜し且つ実物拝見の事を願って呉れる様依頼して帰りました処、其の後木村氏より所有主も分った、そして何時でも見せて下さるとの通信があり、参考までに写真を送らうとて二葉の写真を送り越されました。一は算盤その物の写真で、一は文字の記載ある底板の写真でありました。これによって見ますると如何にも古い物には相違御座いませんが、今から約五百年も以前の物としては如何かと存じましたので、其の儘になって居りましたが遂に本年(昭和六年)一月伊勢へ出向きました折、木村氏と共に所有主吉見氏を訪問し、新一氏と御母堂とに御目にかゝり、算盤を拝見しました。
それは長一尺七寸七分、幅四寸八分、高一寸、二十五桁、梁上二珠、ヒゴは丸竹、底板は引出式でありました。其の底板に文字が書かれ、その側に貼紙がしてその貼紙にも文字が書かれてありました。
底板の文字は黒ずみて、判然と読めませんでしたが、大概次の様でありました。
「国主公多毛(ママ)より小林住居す
文安元子年、安田初代政国持」とあり、貼紙には
「文安以前伊勢国司北畠屋形用十露盤文安子年同国度会郡小林村ニ移ル当時同郡下中之郷町」と一行に記し、その横に「森孝右衛門所蔵」としてありました。又其の引出式の底板を引き出して見ますと、裏桟の一方に
「天保七申(1836)年三月五日求」云々、との文字も見えました。何分文安頃よりは余程新しいものゝ様に感じました。
三井文庫の遠藤佐々喜氏より聞きまするに、伊勢の郷土史研究家の大西源一氏も「算盤其者も文安までは上るものとは存ぜられず。」と申されて居るとの事で御座います。

遠藤佐々喜著『算盤来歴考』(「史学」昭和6年6月)より 
P.150
文安元年在銘古算盤 宇治山田市(現 伊勢市)吉見新一氏所蔵
 右は既に明治十四年三月東京上野公園に開催されたる第二回内国博覧会に出品せられて始めて世に知られたものであるそうだが、其後久しく忘却せられ、明治四十三、四年の頃に至り、三上義夫氏によりて注意せられて世に喧しくなったやうである。又た大正十五年十一月出版 貯金局編纂『珠算の鑑』の口絵に出てゝから今は広く知らるゝに至ったけれども、余は去昭和三年四月中、伊勢郷土史家大西源一氏の好意によりて、其実物の特別写真を入手することを得た。長サ一尺七寸九分、幅四寸七分、高サ一寸一分、全部紫檀製、二十五桁、梁上二ツ珠、珠の形丸みあるもの、底板に墨書と貼紙墨書と二タ通りあり、墨書文字は暗黒不明なれども、大西氏の判読によれば、
「国主公多気より小林住居ス
       文安元子年、安田初代政元持」
貼紙墨書
「文安以前伊勢国司北畠屋形用十露盤文安元子年同国度会郡小林村ニ移ル当時同郡下中之郷町森孝右衛門所蔵」とある。之に対する余が疑問に就て大西氏の答へた返書に『国主公以下文安元年云々の墨書は文安に記したるものに無之候、国主公多気より小林へ住居すとあれども伊勢国司北畠氏が小林に移住した事実は無之候、これは所有者森氏の先代が北畠氏に仕へて後に度会郡小林に移りたとの謂かと存候、それにしても文安元年が怪しく候。此墨書はずっと後にあまり文字の無き人がよい加減に記したるものにて史的価値なきものと存候、但し算盤其者も文安までは上るものとは存せられず候。山田奉行庁が小林に置かれしは寛永以後のことに候、思ふに森氏は天正四年北畠滅亡後、小林なる山田奉行の吏員として同地に移れるものならん、果たして然らば、右墨書も寛永以後のものと存せられ候。』とて、氏は別に比較の為めに、寛永十六年在銘の、同市岡田駒太郎氏所蔵の古算盤の写真をも余に恵与せられた。両者の写真丈けで、実物を見ないでみだりに判断することも出来ぬけれども、大体に於て余は大西氏のお説に賛同せざるを得ない。
 その一理由は、余が蒐集品にも丁度寛永十六年在銘のものと全く同型のものを存して居るからと、又最近に於て紀州方面から入手した古算盤に之を比べると、この方が却て珠顆の丸みの少ないこと其他色々の点などから考へ併せて益々文安否定説に傾いたのである。折角の貴重品に対して、此言をなすは憚り多いけれども、学問上の為めとして御寛恕あらんこと、特に御所有者に弁明かたがた御願ひ申し上げて置く。岡田氏蔵品のものは、長サ一尺六寸九分五厘、幅五寸五分、高サ一寸五厘。

遠藤佐々喜著『算盤来歴考補遺』(「史学」昭和11年7月)より 
P.202
宇治山田市(現 伊勢市)吉見新一郎(ママ)氏襲蔵 北畠屋形用の古算盤
 右に就いては、前回拙稿にも、其図版を示して稍詳しく紹介した。これは足利時代文安元年(1444)の日本最古の算盤として世に有名になってゐる貴什である。乍併、その年号に就いて疑問があることを私も既に述べたが、其後に聴取した所を併せて再説すると、元来この「文安元年」の年号は、此算盤の底板の貼紙墨書にある丈けの事で、その前後の文句を解析すると、『文安以前伊勢国司北畠屋形十露盤』とあるのは、北畠屋形が文安以前にあった事を示すもので、次に続けて『文安元子年同国度会郡小林村ニ移ル当時同郡下中之郷町、森孝右衛門所蔵』とあるも、算盤其ものの年代とは関係はない。所蔵者の移住年代
に関する覚書であることが判る。又た右貼紙銘記の外に、底板直書銘記に『国主公多気より小林住居ス。文安元子年安田初代政*(元カ)持』と薄く見える由だが、この文句も直接には算盤と関係がなく、元の所有者安田氏の家系年代を示すのである。要するに此文句は北畠家旧蔵の稀代の古物であることを知らせる為めに文安の年号迄も持ち出したものに過ぎないと推察する。前回拙稿にこの年号に就て、郷土史家大西源一氏の示教に基いて疑ひを存しながら、尚ほ「時代丈けに就てはそういふものも有り得べきわけになる」と筆を滑らせたことは粗慢であったから今それを追訂する。益友高井計之助氏が之を実検されたところによれば、
 『其の引出式の底板を引き出して見ますと、裏桟の一方に、
     「天保七申年三月五日求」 との文字も見えました。
何分文安よりは余程新しいものゝ様に感じました』とある。
 シテみると、これは北畠家伝来品を天保七年に今の所蔵者吉見氏か他の誰かが、之を買ひ求められたものだといふことは確実である。買入年代が新しくても、算盤其物の古きは、裏書の通りに文安の北畠家時代の古さを直感せしめるほどに稀世の古物であることに易はりはない。前回拙稿に、私が之と其の古さを比較する為めに、寛永十一年在銘の伊勢岡田駒太郎氏所蔵の古算盤図版を以てしたのは、年代推定の手段であった。私の考へる所では、この所謂文安算盤は、文安では断然なく、それより百八十年か二百年か後れた元和寛永年間(1616〜1642)のものであらうと推定する。この推定年代を再吟味する為めには、更に住友家遺品とこの吉見氏蔵品とを実物によって実際に比較することが出来れば結構である。
此算盤 長一尺七寸九分、幅四寸七分、高一寸二分、二ツ珠、丸珠、紫檀製、底板桧材後修のものの由。

≪人 物 略 歴≫                          
 遠 藤 佐々喜   えんどう・ささき
明治9(1876)年12月14日〜昭和21(1946)年1月4日
 島根県生れ 号「萬川」 明治39(1906)年7月東京帝国大学文科大学史学科卒業、9月 東京帝国大学大学院に入る。
 明治40(1907)年1月 三井家同族会事務局嘱託となり 三井家編纂室勤務
 大正8(1919)年12月 三井家同族会事務局に傭入
 昭和2(1927)年2月  三井合名会社傭入
 昭和14(1939)年4月 三井合名会社退職
 三井家編纂室は大正7年「三井文庫」と改称、三井文庫に勤務のかたわら「古算書および古算盤の蒐集」に当られていたが、戦火の自宅に及ぶのをおそれて三井文庫にその一部(初期のもの)を預けられたが、不幸にして三井文庫も戦火を蒙り、幕末の古算書・古算盤(職員の言:30〜40面)を残して他は悉く消失してしまった。
 研究はすこぶる文献学的で、引用文献のすべてが注記されており、益すること多大なものがある。特に古算盤の研究については遠藤の右に出る者はなく他の追従を許さなかったであろう。
 岡本則録、室井平蔵らとも親交があり、三上の論文も消化された「算盤来歴考」は好個の論文である。
 遠藤の研究を通じて、高井計之助・溝江清らに与えた影響は大なるものがある。

 高 井 計之助   たかい・かずのすけ    1875〜1934
「東京講演同好会」講演集267(昭和6年10月5日)の講師紹介等より
『講師は愛知県知多町の出身、郷里において(百日算流)新亮速算研究塾の堀 梅吉の塾生として算盤の修業、後に法律家を志して上京し日本大学の前身日本法律学校に入学され、卒業後明治38(1905)年同校に商科の設置と共に講師となり現在に至る。尚早稲田大学を始め諸大学にも講師として教鞭をとられる。』
「高井流」の首乗法と商除法の創案者。
珠算史の恩人:故山崎與右衛門(元日本大学教授)、東京・北区にある「安部学院高等学校」の創設者:故安部元章前理事長などの恩師である。
和算研究の嚆矢としても活躍し、蔵書家としても知られ、多数の稀覯本が所蔵されていたという。氏の没後散逸したが、一部は「米議会図書館」や「東京天文台」などに収蔵され現存するという。
昭和9(1934)年8月24日没、60歳

 三 上 義 夫 みかみ・よしお
 明治8(1875)年2月16日〜昭和25(1950)12月31日  
大正・昭和期の数学史家。広島県出身。
文部省検定試験で、中学校数学科教員免許を取得。
帝国学士院嘱託として和算史の研究に従事。
大正3(1914)年 東京大学哲学科卒業。
学問に専念するため、生涯専任の職業につかなかった。
著書には、遠藤利貞の遺稿を改訂した『増修日本数学史』、『文化史上より見たる日本の数学』等がある。 

上 田 万 年 うえだ・かずとし
     慶應3(1867)年2月11日〜昭和12(1937)年10月26日
明治・大正時代の国語学者。名古屋の生まれ、東京大学を卒業。
ドイツ・フランスに留学、帰国後東京大学教授、文学博士、神宮皇学館長(1919~1926)をへて、学士院会員、貴族院議員となった。
円地文子の父。教え子に、新村出・橋本進吉・金田一京助がいる。
西洋言語学の研究方法を紹介し、国語学の発展の基礎を確立した。国語国字問題に関心を有し、国語調査委員として仮名づかいの改定や漢字制限を提唱した。
著書『国語のために』『国語叢話』などがある。(人名大事典・谷山茂・むさし書房・16
版1985.6.10他)
 
 沢 田 吾 一 さわだ・ごいち 1861.9.23〜1931.3.12
 明治〜昭和前期の数学者・歴史学者。美濃国生まれ。
 中学校卒業後、陸軍省御用係として陸地測量に従事し、のち東大卒。東京高等商業教授として商品学や高等利息算・生命保険数学を担当。退官後、60歳で東大国史学科入学。
著書に、奈良時代の人口と斗量を数学的方法で明らかにした『奈良朝時代民政経済の数的研究』(昭和2:1927年)、『日本数学史講話』(昭和3:1928年)等がある。


 この件については、吉見家の決断と博物館学芸員の和崎光太郎氏のご協力、その他多くの方々のご理解により実現しましたが、最大の貢献者は久下五十鈴氏であります。誌上をお借りして敬意を表すものであります。
既に常設になっていて、いつでもだれでも見られます。京都にお出かけの節は、是非とも立ち寄ってご覧になって下さい。 

◎「京都市学校歴史博物館」
所在地 京都市下京区御幸町通仏光寺下る橘町437 
Tel075‐344‐1305 Fax075-344-1327 9:00〜17:00 休館水(祝日の場合は翌日)
交 通 市バス「四条河原町」から徒歩5分
◎日珠連より、英文解説書『SOROBAN』五冊。
暁出版より、『日本のそろばん』二冊を博物館・吉見家に寄贈していただきました。
◎私事ですが、ブログ「ソロばんかきょう」と「ソロバン考」を立ち上げました。
 興味のある方はご一覧ください。
『日本珠算』629号(H24年3月)所収
「吉見家旧蔵・文安算盤の紹介・論文等」

1.「珠算の鑑」 貯金局編 大正15.11.15
2.「日本数学史講話」 沢田吾一著 S3
3.「算盤来歴考」遠藤佐々喜著慶應大学文学部内三田史学会「史学」第十巻第二号S6.6
4.「算盤雑話」 高井計之助著述 S6.10.5
5.「珠算道講話」高橋明夫著(S8.8.10、目黒書店)
5−2.5の改訂版「珠算教育概論」(S46.12.5、暁出版)
6.「ソロバンの今昔」安部元章著 S11.5
7.「算盤来歴考補遺」 遠藤佐々喜著 「史学」第十五巻第二号 S11.7
8.「日本珠算史」 溝江 清著 S15.11.20 同文館
9.「我が国文化史上より見たる珠算」 三上義夫著述 S16.6.7
10.「そろばん物語」 竹内乙彦・溝江 清共著 S18.12.30 同文館
11.「珠算史概説」山本長五郎著  抜刷  戦前?
12.「新珠算法」 稲垣儀一著 S24、7、10 ダイヤモンド社
13.「珠算史専門委員会報告(1)」日本珠算連盟 S33.4
14.「そろばんの歴史」 鈴木久男・戸谷清一共著 S35.7.25
15.「東西算盤文献集」 山崎與右衛門編 森北出版 S37.3.25
16.鈴木久男著『珠算の歴史』(初版:昭和39年・富士短大・P.172
16−2.16の増補改訂版:平成12年・珠算史研究学会・P.189)
17.「日本のそろばん」山崎與右衛門・竹内乙彦・鈴木久男共著 暁出版1968.9.20
18.「珠算事典」 珠算事典編集委員会 S45.4.30 暁出
19.「日本珠算思想史要論」 中橋貞造著 S56.12.10 育全
20.「図説そろばん」  竹内乙彦著 協立出版 H元.11.1

1.「珠算の鑑」 貯金局編 大正15.11.15
   口 絵に【写真】  現存スル日本最古ノ算盤
伊勢の山田で発見された算盤は、後花園天皇の文安元年即ち今から四百八十二年前のものであるから、其の以前既に算盤が伝来してゐたことは想像するに難くない事実でらう。
   然し算盤が我々の日常生活に一般に応用される様になったのは、豊臣秀吉時代以後の事であらう。

2.「日本数学史講話」 沢田吾一著 S3
  「珠算盤ハ何時頃渡来シタカハ明ラカデナイガ、一般ニハ足利時代カラ渡来シタト云ハレテイル。今日マデニ発見サレタ最古ノ珠算盤ハ伊勢山田ニアッテ、文安元子年トカイテイル。コノ珠算盤ハ珠ガ丸味ヲ帯ビテイテ甚ダ古風ナリ。」

3.「算盤来歴考」遠藤佐々喜著慶應大学文学部内三田史学会「史学」第十巻第二号S6.6
『算盤来歴考』(「史学」昭和6年6月)より  図版に【写真】
(一)文安元年在銘古算盤 宇治山田市(現 伊勢市)吉見新一氏所蔵
 右は既に明治十四年三月東京上野公園に開催されたる第二回内国博覧会に出品せられて始めて世に知らされたものであるそうだが、其後久しく忘却せられ、明治四十三・四年の頃に至り、三上義夫氏によりて注意せられて世に喧しくなったやうである。又た大正十五年十一月出版 貯金局編纂『珠算の鑑』の口絵に出てから今は広く知らるゝにいたったけれども、余は去昭和三年四月中、伊勢郷土史家大西源一氏の好意によりて、其実物の特別写真を入手することを得た。長サ一尺七寸九分、幅四寸七分、高サ一寸、全部紫檀製、二十五桁、梁上二ツ珠、珠の形丸みあるもの、底板に墨書と貼紙墨書と二タ通りあり、
墨書文字は暗黒不明なれども、大西氏の判読によれば、
「国主公多気より小林住居す
 文安元子年、安田初代政元持」
貼紙墨書
「文安以前伊勢国司北畠屋形用十露盤文安元子年同国度会郡小林村ニ移ル当時同郡下中之郷町森孝右衛門所蔵」とある。之に対する余が疑問に就て大西氏の答へた返書に『国主公以下文安元年云々の墨書は文安に記したるものに無之候、国主公多気より小林へ住居すとあれども伊勢国司北畠氏が小林に移住事実は無之候、これは所有者森氏の先代が北畠氏に仕へて後に度会郡小林に移りたとの謂かと存候、それにしても文安元年が怪しく候。此墨書はずっと後にあまり文字の無き人がよい加減に記したるものにて史的価値なきものと存候、但し算盤其者も文安までは上るものとは存せられず候。山田奉行庁が小林に置かれしは寛永以後のことに候、思ふに森氏は天正四年北畠滅亡後、小林なる山田奉行の吏員として同地に移れるものならん、果たして然らば、右墨書も寛永以後のものと存せられ候。』とて、氏は別に比較の為めに、寛永十六年在銘の、洞市岡田駒太郎氏所蔵の古算盤の写真をも余に恵与せられた。両者の写真丈けで、実物を見ないでみだりに判断することも出来ぬけれども、大体に於て余は大西氏のお説に賛同せざるを得ない。
 その一理由は、余が蒐集品にも丁度寛永十六年在銘のものと全く同型のものを存して居るからと、又最近に於て紀州方面から入手した古算盤に之を比べると、この方が却て珠顆の丸みの少ないこと其他色々の点などから考へ併せて益々文安否定説に傾いたのである。   
 折角の貴重品に対して、此言をなすは憚り多いけれども、学問上の為めとして御寛恕あらんことを、特に御所有者に弁明かたがた御願ひ申し上げて置く。
岡田氏蔵品のものは、長サ一尺六寸九分五厘、幅五寸五分、高サ一寸五厘。

4.「算盤雑話」 高井計之助講演記録 S6.10.5
 現存せる古算盤に就いて調べて見ましたら、伊勢国宇治山田市に文安元年(1444)在銘のものがあると聞きまして、先年伊勢へ参りました節、宇治山田に住む木村氏に其の所有主を捜し且つ実物拝見の事を願って呉れる様依頼して帰りました処、其の後木村氏より所有主も分かった、そして何時でも見せて下さるとの通信があり、参考までに写真を送ろうとて二枚の写真を送り越されました。一葉は算盤その物の写真で、一は文字の記載ある底板の写真でありました。これによって見ますると如何にも古い物には相違御座いませんが、今から約五百年も以前の物としては如何かと存じましたので、其の儘になって居りましたが遂に本年(昭和六年)一月伊勢へ出向きました折、木村氏と共に所有主吉見氏を訪問し、氏と御母堂とに御目にかゝり、算盤を拝見しました。
それは長一尺七寸七分、幅四寸八分、高一寸、二十五桁梁上二珠、ヒゴは丸竹、底板は引出式でありました。其の底板に文字が書かれ、その側に貼紙がしてその貼紙にも文字が書かれてありました。
底板の文字は黒ずみで、判然と読めませんでしたが、大概次の様でありました。
「国主公多毛より小林住居す
文安元子年、安田初代政国持」とあり、貼紙には
「文安以前伊勢国司北畠屋形用十露盤文安子年同国度会郡小林村ニ移ル当時同郡下中之郷町」と一行に記し、その横に「森孝右衛門所蔵」としてありました。又其の引出式の底板を引き出して見ますと、裏桟の一方に
「天保七申(1836)年三月五日求」云々、との文字も見えました。何分文安頃よりは余程新しいものゝ様に感じました。
三井文庫の遠藤佐々喜氏より聞きまするに、伊勢の郷土史研究家の大西源一氏も「算盤其者も文安までは上るものとは存ぜられず。」と申されて居るとの事で御座います。

5.「珠算道講話」高橋明夫著(S8.8.10、目黒書店)
  P.22
  文安元年の銘あるもの一挺が、宇治の山田市在住の木村家(?)にある由である。(算盤雑話)文安元年と云えば1444年で今から約四百九拾年近くも昔のものとなる。若し銘の文安年号が真実とすれば、蓋し現存算盤中の日本に於ける、巨擘(きょへき)たるを失はぬと同時に、前記小山田与清の説たる寛永・正保の年代よりも古い存在となって、小山田説は全く権威を失ふにいたる。
5−2.  改訂版「珠算教育概論」(S46.12.5、暁出版) P.23 
 文安元年の銘を持つ一挺が、伊勢市在住の木村家(?)に在るとかである。(依高井計之助先生算盤雑話)文安元年と云えば1444年で今から約515年近くも昔のものとなる。もし銘の文安という年号が真実とすれば、現存そる算盤の中で日本最古のものとなると同時に、前記の小山田与清の説である寛永・正保の年代よりも古い存在となって、小山田説は全く権威を失うに至ることになるが、他に(裏桟に)天保七申年云々の文字が見えるから確定することはできない。
 P.23 【写真】
 箱の底板の一隅に貼られた貼紙の文字を真実とするとわが国に現存する古算盤中の巨擘であるが、疑わしい。その文句は、
   文安元子年同国度会郡小林村に移る云々  とある。
 底板には「文安元子年安田初代政国持」とある。 

6.「ソロバンの今昔」(京北実業学校:教諭安部彦治=安部元章、S11.5記)
  P.3  三、現存する古いソロバンの話  【写真】
  現在残って居らるゝ吉見新一氏御所蔵の珍品が最も古いものの様に思はれて居る。
  このソロバンは裏板引出式のもので、その底板に「国主公多毛より小林住居す、文安元子年、安田初代国持」と書かれて居ると高井先生は申されて居た。
  又その左の所に貼紙があり、それには、
  「文安以前伊勢国司北畠屋形用十露盤 文安元子年同国度会郡小林村移 当時同郡下中之郷町 森孝右衛門所蔵」とある。これが事実とすれば、足利八代将軍義政の時代のものである事に成る。文安元年は西暦一四四四年であるから、今年から見れば四百九十二年以前の物だある。
  故高井先生は之を昭和六年一月御覧になり、「文安頃よりは余程新しいものゝ様に感じた。」と申されて居った。
  綾信に依ってみれば、所々修繕した跡があり珠も後になって取換へたのの相当ある。
  梁上二顆でヒゴは丸竹が用ひてある点、珠の形やその他の点から見て或は古く支那から渡来したものではないかとさへ僕は疑問を持って居る。何れにしても相当年代物であるのは事実である。

7.「算盤来歴考補遺」 遠藤佐々喜著 「史学」第十五巻第二号 S11.7  
五、宇治山田市(現 伊勢市)吉見新一郎氏襲蔵 北畠屋形用の古算盤
 右に就いては、前回拙稿にも、其図版を示して稍詳しく紹介した。これは足利時代文安元年(1444)の日本最古の算盤として世に有名になってゐる貴什である。乍併、その年号び就いて疑問があることを私も既に述べたが、其後に聴取した所を併せて再説すると、元来この「文安元年」の年号は、此算盤の底板の貼紙墨書にある丈の事で、その前後の文句を解析すると、『文安以前伊勢国司北畠屋形十露盤』とあるのは、北畠屋形が文安以前にあった事を示すもので、次に続けて『文安元子年同国度会郡小林村ニ移ル当時同郡下中之郷町、森考右衛門所蔵』とあるも、算盤其ものの年代とは関係はない。所蔵者の移住年代に小林住居す。文安元子年安田初代政◇(元カ)持』と薄く見える由だが、この文句も直接には算盤と関係がなく、元の所有者安田氏の家系年代を示すのである。要するに此文句は北畠家旧蔵の稀代の古物であることを知らせる為めに文安の年号迄も持ち出したものに過ぎないと推察する。前回拙稿にこの年号に就て、郷土史家大西源一氏の示教に基いて疑ひを存しながら、尚ほ「時代丈けに就てはそういふものも有り得べきわけになる」と筆を滑らせたことは粗慢であったから今それを追訂する。益友高井計之助氏が之を実検されたところによれば、
 『其の引出式の底板を引き出して見ますと、裏桟の一方に、
     「天保七申年三月五日求」 との文字も見えました。
何分文安よりは余程新しいものゝ様に感じました』とある。
 シテみると、これは北畠家伝来品を天保七年に今の所蔵者吉見氏か他の誰かが、之を買ひ求められたものだといふことは確実である。買入年代が新しくても、算盤其物の古きは、裏書の通りに文安の北畠家時代の古さを直感せしめるほどに稀世の古物であることに易はりはない。前回拙稿に、私が之と其の古さを比較する為めに寛永十六年在銘の伊勢岡田駒太郎氏所蔵の古算盤図版を以てしたのは、年代推定の手段であった。私の考へる所では、この所謂文安算盤は、文安では断然なく、それより百八十年か二百年か後れた元和寛永年間(1616〜1642)のものであらうと推定する。この推定年代を再吟味する為めには、更に住友家遺品とこの吉見氏蔵品とを実物に」よって実際に比較することが出来れば結構である。
此算盤 長一尺七寸九分、幅四寸七分、高一寸二分、二ツ珠、丸珠、紫檀製、底板檜材後修のものの由。

8.「日本珠算史」 溝江 清著 S15.11.20 同文館  (P.17)
≪現存する古算盤≫
現存する算盤中最古のものは、今から約五百年前、文安元年(2104:1444)のものと云はれて、伊勢宇治山田市の吉見新一氏の所蔵になり、その板底(ママ)に、
「国主公多毛ヨリ小林住居ス、文安元子年安田初代国持」と記してあり、貼紙して、
「文安以前伊勢国司北畠屋形用十露盤
文安元子年間同国度会郡小林移
 当時同郡下中之郷町 森孝右衛門所蔵」とある。
 又、裏桟をみると「天保七申(1836)年三月五日求云々」の文字がみえてゐる。
 これが事実だとすれば、今から約五百年前のものになるが、前にも述べたやうに疑問の点があるから、これを以て最古の算盤と断定する事は妥当でないと思はれる。
 何れにしても相当年代のふるいものには相違ないと考へられる。

9.「我が国文化史上より見たる珠算」 三上義夫著述 S16.6.7  (文献集P.78)         
 伊勢の山田(現伊勢市)にある古算盤は文安元年(1444)の在銘のもので、其記載年代から云へば甚だ古いのであります。
 是は大正十一年に伊勢に行きまして、古い時代に博覧会に出したことがあると云ふのを手懸りに苦心して探し出して、やっと見当ったのでありますが、初めには私も在銘通りのものかとも思ひましたけれども、大分新しいものだと云ふ人もあります。(高井計之助『算盤雑話』、遠藤佐々喜『算盤来歴考補遺』を参照)新しいと言っても余り新しく見るのはどうかと思ひます。其蓋の裏の内側に書いてある文安云々の文字を、上田万年先生が神宮皇学館の館長を勤めて居りまして御覧になったのですが、其字体は戦国時代を下るものではないと云ふことを私へ話された事があります。字体の年代の鑑定などは私共には判らないし、わたしが見出した頃には他の古算盤を多くみても居りませんで、年代の鑑別なども判然としなかったのを遺憾に存じます。

   
10.「そろばん物語」 竹内乙彦・溝江 清共著 S18.12.30 同文館  (P.23)
  【写真】  「五百歳ソロバン」
  われこそは日本最古のソロバンなり……とばかりに、手ぐすねひいて待ちかまへてゐた面々の中で、まづ最初に名乗って出たのは、伊勢山田市の古ソロバンです。
 「えゝ、わしの現在の主人は吉見新一殿じゃが、これでわしは何代の主人に仕えたかちょっとわからん。わしは五百年まえに生まれてゐるが、とにかくわしより以前に生まれたソロバンは絶対にない……さう信じてゐるのじゃが」と御老体ながらたいへんな鼻息です。
  五百年前のソロバン?!こんな古いソロバンはわが国に二つとありません。五百歳ソロバン……さう信じてはあげたいのですが、このソロバンだけがとびぬけて古いので、あまり御老体のため、つい年齢を間違へたのではないかと思はれる点があります。
  そこで深く研究しては見ましたが、どうしても確かなことがわかりません。それに今日なほ「いや、あのソロバンはそんなに古いものではない。」といふ人があるかと思えば、「いやいや、確かにそのくらゐ古いそろばんだ。」と主張する人もあるといふし次第です。
  しかし、とにかくわが国の古ソロバンの一つであることは確かであります。

11.「珠算史概説」 山本長五郎著  抜刷  戦前?
 P.231
  今日迄に発見せられた最古の珠算盤は伊勢山田にあって、文安元子年と書いてある。此の珠算盤は珠の丸味を帯んでゐて甚だ古風である。ト述ベテ、算盤渡来ヲ足利時代ト謂ッテ居ル。
 P.234
  我国ニ現存スル古キ算盤ニ就キテ最近ノ書物ニ其ノ来歴ガ載セラレテアル処ヲ観ルニ最モ古キ年号ノモノハ文安元年(西紀1444年)即チ足利義政時代ノモノガ伊勢ノ宇治山田市ノ吉見新一氏ノ家ニ伝ハッテ居ルトノコトデアル。余ハ此ノ古算盤ガ果シテ文安元年ノモノナルヤ否ャニ就キテハ大分疑ヒガアルラシイノデアル。余ハ未ダ此ノ古算盤ヲ見ザレバ其ノ真偽ヲ断定スルコトハ出来ナイノデアルガ、遠藤佐々喜氏ノ如キハ寧ロコレヲ否定シテ居ル位デ、大体ニ於テモット新シイモノトサレテ居ルノデアル。此ノ算盤ニ就キテ記サレタル処ニヨルト、長サ一尺七寸九分、幅四寸七分、高サ一寸一分、全部紫檀製、二十五桁、梁上二ツ珠、珠ノ形ハ丸味ノアルモノニシテ底板ハ引出式ニナッテ居ルト云フ事デアル。其ノ底板ニ墨書サレテアリ其ノ側ニ貼紙ガシテアッテ其レニモ文字ガ墨書ノ文字ハ暗黒不明デアルケレ共大西氏(伊勢郷土史研究家)ノ判読シタル処ニヨルト
『国主公多気ヨリ小林住居ス 文安元子年 安田初代政元持』トアリ、貼紙墨書ニハ
『文安以前伊勢国司北畠屋形用十露盤 文安元子年同国度会郡小林村ニ移ル 当時同郡下中之郷町  森孝右衛門所蔵』ト書カレテアルトスル。
 遠藤佐々喜氏ノ之ニ対スル疑問ニ就キテ大西氏ハ
 文安元年が怪しく候。此墨書はずっと後にあまり文字の無き人がよい加減に記したるものにて史的価値なきものと存候。但し算盤其者も文安までは上るものとは存ぜられず候。云々
ト答ヘテ居ル事ハ雑誌『史学』遠藤佐々喜氏ノ「算盤来歴考」中ニ載セラレテアル処デアル。コノ外高井計之助氏モ此ノ古算盤ヲ文安ヨリズット新シイモノト鑑定サレテ居ル様デアルカラ先ヅ之等ニヨッテ文安元年ヨリ後代ノモノデアルト認メタ方ガヨカロウト思ハレルノデアル。 

12.「新珠算法」  稲垣儀一著 S24.7.10  ダイヤモンド社
 P.5  【写真】
   このように明代から使用されつつあった算盤が、わが国に伝わって来た時代や経路については、はっきりしていないが、三重県宇治山田市にある文安元年(1444年)と銘のある古算盤や、前田利家が肥前名護屋の陣中で使用したという算盤が現在残っている。

13.「珠算史に関する報告」(日本珠算52〜58)日珠連・珠算史に関する専門委員会S33
 P.1081  第八章 古そろばんについて
  文安元年(1444)そろばんについては、文安元年在銘古算盤 宇治山田市 吉見新一氏蔵 長1尺7寸9分 幅4寸7分 高サ1寸1分 紫檀製 二十五桁 梁上2つ珠 珠の形丸みあり、底板を伊勢郷土史家大西源一氏による判読すれば、
   「国主公多気より小林住居す 文安元子年 安田初代政元持」 
  貼紙墨書
   「文安以前伊勢国司北畠屋形用十露盤 文安元子年同国度会郡小林村ニ移ル 
当時同郡下中之郷町 森孝右衛門所蔵」
   之に対する余が疑問に就て大西氏の答へた返書に
   「国主公以下文安元年云々の墨書は文安に移住したものに無之候、国主公多気より小林へ居住すとあれども伊勢国司北畠氏が小林に移住した事実は無之候、これは所有者森氏の先代が北畠氏に仕へて後に度会郡小林に移りたとの謂かと存候、それにしても文安元年が怪しく候、此墨書はずっと後にあまり文字の無き人がよい加減に記したるものにして史的価値なきものと存候、但し算盤其者も文安までは上るものとは存ぜられず候、山田奉行庁が小林に置かれしは寛永以後のことに候、思うに森氏は天正四年北畠滅亡後、小林なる山田奉行の吏員として同地に移れるものならん。果して然らば、右墨書も寛永以後のものと存せられ候」との文を紹介された。      

14.「そろばんの歴史」 鈴木久男・戸谷清一 S35.7.25 (P.31) 
  前田家のそろばんよりも古いもの、といわれているものに、伊勢市の吉見新一の持っ   
 ているそろばんがありますが、このそろばんは、年号に信用がおけない点があります。
  高井計之助『算盤雑話』に、
  吉見新一のそろばんには、1444(文安元)年に安田某が、国主北畠公について、多気から小林というところへ移ったときに持ってきたと書かれてあるけれども、大西という人の調べたところによると、文安元年に北畠公が小林に移住した時日はないというし、私(高井)も、実物をみたが、そんな古いようでもないし、裏に、天保七申年三月五日求という文字も見えたから疑わしい、と述べられているのです。五珠が二つの二十五桁のものです。

15.「東西算盤文献集」 山崎與右衛門編 森北出版 S37.3.25
口絵に【写真】前述の3,4,5,7を掲載。

16.鈴木久男著『珠算の歴史』(初版:昭和39年・富士短大
P.172  古そろばん
 文安元年のそろばん
 宇治山田市の吉見家のそろばんであり、遠藤佐々喜によって紹介された。
  長一尺七寸九分、幅四寸七分高サ一寸一分、紫檀製、二十五桁
  底板に  国主公多気より小林住居す 文安元子年 安田初代政元持
  貼紙の墨書に
文安以前伊勢国司北畠屋形用十露盤 文安元子年同国度会郡小林村ニ移ル
      当時同郡下中郷町 森孝右衛門所蔵  
   とあるという。遠藤氏が大西源一氏に問いあわせたところ、
    底板の墨書は文安に記したものではない。
    国主公多気より小林へ住居す とあるが、伊勢国司北畠氏が小林に移住した事実はない。 
    所有者森氏の先代が北畠氏に仕えて後に度会郡小林に移ったというのではないか。  
    文安元年は怪しい、墨書はずっと後にあまり文字のない人がいい加減に記したもので史的価値はないと思う。
   などと返書が来たこと、遠藤氏自身は元和〜寛永のものであろうと推定された。
    高井計之助は『算盤雑話』で此の算盤に触れ
      “引出式の底板を引き出して見ますと、裏桟の一方に「天保七申年三月五日求云々」との文字も見えました。何分文安頃よりは余程新しいものの様に感じました。”と述べている。
    十露盤の文字からして文安ごろとは思えない。 

16−2.増補改訂版:平成12年・珠算史研究学会・P.189)
    16.と同文である。

17.「日本のそろばん」山崎與右衛門・竹内乙彦・鈴木久男共著 暁出版1968.9.20
  (P.41) 【写真】
  宇治山田市の吉見家に伝わるもので、底板に墨書と墨書貼紙とがある。
  その墨書の文字はもうはっきり読むことができなくなっているが、伊勢の郷土史家大西源一氏は、「国主公多気ヨリ 小林居住ス  文安元子年 安田初代政元持」 と判読され、1444年(文安元)の年代を知ることができる。
  貼紙墨書の方は、写真のように、
  「文安以前伊勢国司北畠屋形用十露盤文安元子年同国度会郡小林村ニ移ル
当時同郡下中之郷町    森孝右衛門所蔵」 と読みとることができる。
  この1444年(文安元)という年代については、遠藤佐々喜氏が<算盤来歴考>(1931年、昭和6)で、古いものにはちがいないが無条件に信じがたいと論考されている。
  そろばんは、写真のように右から11桁目が欠けてはいるが、歴史のうえからは意義のあるそろばん。 

18.「珠算事典」 珠算事典編集委員会 S45.4.30 暁出版
    口絵に【写真】
  P.1133
   算盤がいつごろわが国に伝来したかということについては種々の説があって、定説というべくものはないようである。
   つぎにわが国の古算盤をあげながら、算盤伝来の時期を考察してみよう。
   現今わが国最古の算盤といわれているものは、
伊勢宇治山田市の吉見家所蔵の古算盤で、その底板に、
「国主公多毛ヨリ小林ニ住居ス 文安元子年安田初代政国持」と記してあり、
その左のところに貼紙して、
 「文安以前伊勢国司北畠屋形用十露盤 文安元子年同国度会郡小林村移 当時同
  郡下中之郷町 森孝右衛門所蔵」としたためられている。
 この算盤は梁上2珠で籤(くじ)は丸竹になっているが、その珠の形なごから考えてみると、相当ふるいもののようで、もし文安元(1444)年が事実とすれば、今から510年ほど前の算盤になる。しかし、これは正確な研究なしには断定できない。
  算学者 沢田吾一(1861~1931)の著書『日本数学史講話』中に、
 「珠算盤ハ何時頃渡来シタカハ明ラカデナイガ、一般ニハ足利時代カラ渡来シタト云ハレテイル、今日マデニ発見サレタ最古ノ珠算盤ハ伊勢山田ニアッテ、文安元年トカイハレテイル、コノ珠算盤ハ珠ガ丸味ヲ帯ビテイテ甚ダ古風ナリ」とのべて、暗に吉見家の算盤を足利時代といっている。
 しかし、伊勢の郷土史研究家大西(源一)氏は、
 「文安元年ガ怪シク候。 此墨書ハズット後ニアマリ文字ノ無キ人ガヨイ加減ニ記シタモノニシテ、史的価値ナキモノト存候。但シ算盤其者モ文安マデハ上ルモノトハ存ゼラレズ」トいい。
 また高井計之助も生前この算盤は文安よりずっと新しいものと鑑定意していた。
 文安元年といえば足利第六代将軍義政の頃にあたり、中国では明の正統9年ごろに相当する。正統年間は明代のごく初にあたるもので、前にものべたように今日使用されている算盤は、だいたい元末から明初にかけて考案されたものと筆者(溝江清?)は推定するから、文安元年説はすこし時代がはやすぎるようである。
 あるいは後世の人が年号だけを書きいれたのではないかという疑いもあって、この説は妥当でないようである。
 しかし、これも私の推測だけであるから、正確な研究の結果、あるいはその当時に伝来した珍品になるかも知れない。 
P.1135
      第5節  古 算 盤
    現存する算盤中で最古のものは、前述のように今からだいたい510年ほど前、すなわち文安元(1444)年のものといわれ、伊勢宇治山田氏の吉見家所蔵の算盤である。その底板に、「国主公多毛ヨリ小林ニ住居ス。文安元子年安田初代政国持」と記してあり、なお貼紙して、
    「文安以前伊勢国司北畠屋形用十露盤 文安元子年間同国度会郡小林移 当時同郡下中之郷町 森孝右衛門蔵」とある。また裏桟をみると、「天保七申年三月五日求云々」の文字が見えている。これが事実とすれば、今から510年ほど前の算盤になるが、前にものべたような疑問点があるから、これをもって最古の算盤にするわけにはいえない。
    しかし、いずれにしても相当ふるい算盤であることは確かである。

19.「日本珠算思想史要論」 中橋貞造著 S56.12.10 育全
  P.159
    現在わが国に存在する最も古い算盤は、伊勢の山田にある、文安年間(1444〜1449)
   の銘があるし、現在でも保有されて北畠が所有しているが、これはその頃に中国の算盤が日本に伝えられたことを有力に物語るものである。
  P.227  【写真】

20.「図説そろばん」  竹内乙彦著 協立出版 H元.11.1
  P.24    P.26に【写真】
    もう一つ古いそろばんといわれているのは、三重県伊勢市宮後町の吉見新一氏所蔵の文安元年(1444年)在銘のものである。
    底板の墨書と墨書貼紙とがある。その文字ははっきり読むことができなくなっているが、伊勢の郷土史家・大西源一氏は
     国主公多気ヨリ 小林居住ス 文安元子年 安田初代政元持  と判読され、(高井計之助氏は少し異なる)
    貼紙墨書の方は、
     文安以前伊勢国司北畠屋形用十露盤 文安元子年同国度会郡小林村ニ移ル 当   時同郡下中之郷町 森孝右衛門所蔵
   と読みとることができる。
    この文安が本当にだとすれば、相当に古いことになり、にわかに信じ難い。遠藤佐々喜氏も「算盤来歴考」(昭和六年・1931年)で、古いものには違いないが無条件には信じ難いと論考されている。    

鈴木久男著『古そろばんの研究』(昭和48年8月13日)より
P.170
吉見新一氏蔵の二十五桁:凸錘玉、左方五桁ほど補てんされた:平錘玉。
P.357
横54.4  縦14.3  高3.1
P.133
底板引き出し裏小板はめ込み
P.145
  梁上単位  黒漆書  米・金・銀(目)











「吉見家旧蔵・文安算盤」寄託についての覚書


本器は江戸時代の末より、三重県伊勢市(旧宇治山田市)の吉見家に伝わる。
初代 吉見新平は天保2(1831)年に生れ、成人の後分家、「かまぼこ製造業」を生業とし、【蒲新】を屋号とした。
「骨董蒐集」を生涯の趣味とし、明治維新直前の頃本器を入手した。
新平50歳の頃の明治14年、東京上野公園において開催された「第2回内国勧業博覧会」に出展したことが、本器が世に出る端緒である。
二代 吉見千代蔵は【蒲新】を承継するも、大正6年59歳で病没した。後継者の新一が若年(12歳)のため、已む無く【蒲新】は廃業となる。
三代 吉見新一は、明治38年に生まれ、若年より趣味としていたカメラを活かし「写真館」を経営した。新一は昭和63年84歳で没した。
その後、公務員であった四代目 吉見昌子・康夫夫妻の手を経て長男保・長女佳奈子兄妹が引き継ぎ現在に至った。
今般、京都在住「ニューイクゼン」社主・久下五十鈴の尽力により、吉見家の希望を勘案し、「京都市学校歴史博物館」にその保管を寄託して、斯道の貴重な古算盤を永く世に伝える運びとなった。
因って、後日のため本器寄託の覚書とする。
 
  平成23年11月26日
                   日本珠算連盟 会員
珠算史研究学会 会員
             一般社団法人大阪珠算協会 顧問
 村 上 耕 一 識







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2012年01月02日

伝来の頃の古ソロバン

「伝来の頃の古ソロバン」

1.「大垣 田中家の古製算盤」           

 「埋もれていた古ソロバン」がその姿を現した。

 日珠連「珠算史専門委員会報告(1)」(昭和33年4月)によれば、古いソロバンそのものの製作年代や、その履歴を調査して考証せられた先駆者は≪遠藤利貞≫だそうである。
 その著『机前玉屑』(きぜんぎょくせつ)に「岐阜県下美濃大垣町字廓町、田中巳之助寄贈に係る十三桁、背梁無字、梁上一珠、梁下五珠、珠形矯立円(通俗之ヲ橙子形ト云フ)、製造粗、破損甚し、僅に七軸(現状6桁)を存するのみ、支那の製作に非ず、寛永11年(1634)以前の作と判定される。明治43年(1910)調査」などと記述されている。
 これについて、『東西算盤文献集・第二輯』(山崎與右衛門編・昭和37年3月25日・森北出版)に、遠藤佐々喜の論文『算盤来歴考補遺』(原文:慶應大学文学部・三田史学会発行【史学】・昭和11年7月)が別掲の≪遠藤利貞の由来文≫とともに掲載されている。
 遠藤佐々喜によれば、この算盤の写真を昭和6年10月11日、高井計之助からもらったということである。

遠藤利貞(えんどうとしさだ、1843〜1915)は、1875年東京師範学校教師、官版珠算書・第1号を刊行。1906年帝国(現日本)学士院に勤め、和算書などの蒐集、調査・研究を行い、『大日本数学史』などを著した。
高井計之助(たかいかずのすけ、1875〜1934)は、珠算を堀 梅吉の指導を受け、上京し日本法律学校(日本大学の前身)を卒業後、1905年商科設置と共に講師となる。
 和算史研究の嚆矢であり、多数の稀覯本などの蔵書家としても知られ、没後散逸した一部は「米議会図書館」「東京天文台」に現存するという。山崎與右衛門・安部元章他の恩師である。
遠藤佐々喜(えんどうささき、1876〜1946)は、史学家。明治40年三井家編纂室(現三井文庫)、三井家同族会事務局、三井合名会社勤務。その論文は文献学的といわれる。特に古算盤の研究については他の追従を許さないといわれた。慶長・元和の頃を下るまいと鑑定した30〜40面の古算盤と古書籍は戦災に遭い焼失して現存しない。

 由来書に「毛利重能・吉田光由の名が見える」ことや、委員会報告の「古そろばんに関する研究を遠藤佐々喜・高井計之助以外に知らない」もあり、その遠藤佐々喜も「その年代の推定は同意できる」とあるので、寛永11(1634)年以前ということで間違いないと思う。従って、このソロバンは、現存する古ソロバンの中でも極めて初期の一面であると認めてよいと思う。

 話は変わって、京都に「ニューイクゼン」(日珠連会員・当誌に広告掲載)の社主:久下五十鈴という方がおられて、数年来親交いただいている。
 久下氏は、全珠連の「育全」の後、その業務全般を引き継いで現在も経営しておられる。店舗の2階には、驚くほど沢山のソロバンや種々の文書などが、山積みと表現しても過  
言ではないほど展示されている。
 その久下氏は十年以上に亘って『割算書』・『塵劫記』、特に『塵劫記』(1627年)の著者≪吉田光由≫に興味をひかれて、光由の墓所を探し当て、吉田家・角倉家を訪ねて家系図を閲覧したり、墓所である「二尊院」(常寂光寺の隣)の過去帳に光由の戒名「顯機圓哲信士」を確認された。なにより私が感動するのは、毎月欠かさず数回は、光由と吉田・角倉家の墓所の清掃に勤めておられることである。
 昭和52年10月10日、塵劫記刊行350年を記念して、日珠連・全珠連・日本数学史学会の共催で常寂光寺に「塵劫記記念碑」を建立したが、その30周年法要を平成19年10月21日に、また平成22年11月20日には、「吉田光由に感謝する会」を自費で営まれたのであります。
 その間、かねてからの氏の夢であった、「そろばん館」という「商標登録」を平成19年11月16日取得され、その願望を達成されました。
 久下氏のつぎの目標は、「光由の使用したソロバンが残存するのではないか?」とその探索でした。
 前述の「家系図」や話の中に、「(光由の?)五番目の息子である、儀兵衛は母方の田中家の云々…」という記載があったこと、吉田家第十七代当主、吉田弘氏の「曽祖父の方は田中姓であったらしい?」という言葉などから、「田中」という姓のつくソロバンについて、書籍などを繙いて調べられました。
 その結果ようやく『東西算盤文献集』の「大垣田中家旧蔵品」に辿りつき、その算盤が日本学士院に収蔵されていることをつきとめられたのであります。
 早速、日本学士院に依頼して入手したのが、掲載の写真です。

 このソロバンについては、遠藤利貞、高井計之助、遠藤佐々喜の三氏の外には、
写真については、二冊あって、どちらも暁出版発行で、『日本のそろばん』(山崎與右衛門・竹内乙彦・鈴木久男共著、1968年9月20日)と『算顆随想 続』(山崎與右衛門著、昭和52年5月29日、「日本学士院の古算盤」)である。
説明文としては、
鈴木久男著『珠算の歴史』(初版:昭和39年・富士短大・P.175、増補改訂版:平成12年・珠算史研究学会・P.192)で、「大垣 田中家旧蔵学士院蔵 五珠1 13桁(遠藤利貞発見) 寛永十一年(1634)以前の作(遠藤利貞による)」と、同じく鈴木久男著『古そろばんの研究』(昭和48年8月13日)ではP.130とP.364の各一行のみ触れておられる。
『日本のそろばん』では、 P.57【寛永以前のそろばん】 【写真】とともに、
「大垣の田中家に伝わっていたもので、遠藤利貞氏の自筆稿本≪古珠盤考並本器之由来≫(明治43年:1910)で寛永11年(1634)以前の製作にかかるものと論究されたそろばん。
田中家の祖先田中与惣次は谷幽斎の門弟で達算者であったといわれる。
田中家は宝永3年8月28日に大垣領瀬川村に移住し土地を開いて、名主となった旧家で、当時の当代の巳之助氏はその10代目。」とあります。
 『算顆随想 続』(山崎與右衛門著、昭和52年5月29日、P.77「日本学士院の古算盤」)
【写真】  長さ37.3p 天地 中央14.7,右端15.4p,左端15.1p
  「この写真は私が21歳のとき(T6〜7:1917〜8)、友人の報せで日本学士院にあることを知り、神田淡路町の江本写真館の御主人と共に撮影に行った古い記憶がある。
  偶、数十年見かけなかったこの写真がこの頃見出されたので、いまどうなって居るであろうかとの好奇心から、去る(S51年)八月一日、炎天の中を日本学士院に赴き、受付の娘さんに持参した古い写真を示したところ、直ぐに保管場所から現品を出してきて私の座席の前に置かれた。
  箱の中にある古算盤は六十年近くを経過しても少しも変っていないのが印象的で、私はひとりで微笑(えみ)をもらした。
  この古算盤の桁数が十三桁なので、古い中国算盤十三桁のものと比較してみた。
  全体の長さ、幅に変りがないが、(中国製と)比較して構造や珠の形態が全然違って居る。日本で算盤が製造されるようになって間もなく作られたものと想像されるが、日本的性格を充分に帯びている。
  古算盤に残された十九個のうちやゝ大きいのが、この算盤に始めからあったもので、九個か十個である。その他の珠は他の算盤珠を補充したのではあるまいか。珠は轆轤(ろくろ)で作られたと思うが、初期の算盤珠には一個ずつ鑿(のみ)で作られたのもある。」

 今回、久下五十鈴氏の執念ともいえる尽力と、日本学士院の井上司氏の協力を得て、この算盤が今、日の目を見たということは、珠算界・珠算史研究者にとって朗報であり、ソロバン自体も浮かばれ、遠藤利貞・高井計之助・遠藤佐々喜両の先生方もお喜びと思い「日本珠算」に掲載を依頼した次第です。
 今のところわかっているのは、
      天1地5、13桁(6桁・珠19顆残存)、縦155mm×横375mm×高さ31mm、
梁の幅30mm、桁ヒゴの太さ4.1mm〜4.3mm、釘づけ    
のみで、「吉田光由との関係」は吉田家現当主も調査するということで未詳です。
また、材質その他の考証は遠藤利貞の言「有識諸君ノ考断ヲ待ツ者ナリ」ということですが、わかりましたら報告いたします。


追 記
1444年の銘のある「文安算盤」(三重県伊勢市 吉見家収蔵)についても、久下氏のお世話で11月26日(土)、新しい動きがありました。それについては後刻報告いたします。

「日本珠算」24年1月号所収


 『東西算盤文献集』 第二輯より

   「 算 盤 来 歴 考 補 遺 」          遠 藤 佐 々 喜  

五 古い算盤遺存品の比較 
 三 大垣田中家旧蔵、帝国(現 日本)学士院襲蔵の古算盤
 右の実物写真の複写一葉を、予は、故高井(計之助)氏から、昭和六年十月十一日に恵与せられたものを珍蔵してゐるが、茲には省く。
此そろばんは破損甚だしいが、古拙な作で、桁数十二行、梁上一珠のものであるが、珠形は前田家遺品に酷似して居り、全貌一見して寛永時代の遺物たることが、鑑賞される。この古算盤は日本数学史の著者遠藤利貞氏が明治四十三年に発見されたものである。同(遠藤利貞)氏の自筆に成る本器の由来書を写せば、

   『古珠盤考並本器之由来』
此古珠盤ハ明治四十三年十月 帝国学士院ノ命ヲ受ケ、和算史編纂材料蒐集ノ為メ岐阜県下美濃大垣町ニ到リシ時、同町字廓町ノ住 田中巳(己)之介ノ寄贈ニ係レル者ナリ。蓋シ同氏ノ祖父ハ谷幽斎ノ門弟ニシテ田中与惣次ト曰フ達算者トゾ聞ヘタリ、此家元ト同国多喜郡(現今養老郡)京脇村ニ在リテ富豪ト号ス、宝永三年(今年ニ先ツコト二百四年)八月二十八日大垣領(戸田伯領地)久瀬川村(現今大垣町)ニ移住シ大ニ土地ヲ開キ、同村ノ名主ト為ル(現戸主ヨリ十代前ト云フ)、与惣次氏ハ数代後(八代ノ後ナラン)ノ戸主ナリ、大垣藩士小原鉄心ノ知遇ヲ受ケタルモノト聞ケリ。此古算盤ハ与惣次ノ在世中常ニ使用シタルモノナリ(巳之助ノ祖母ノ言ニ依ル)、今本器ヲ視ルニ位十三桁、脊梁無字、梁上一珠、下梁五珠ニシテ珠形な矯立円(通俗之ヲ橙子形ト云フ)ヲ成スモ、製造粗ニシテ帯アルニ似タリ、破損甚クシテ僅ニ七軸ヲ存スルノミ、加之珠軸摩殺シ、珠モ亦多数ヲ落脱ス、其全体古色蒼然トシテ掬スベシ、熟ヲ古図ニ就テ之ヲ考フルニ、此器支那ノ製作ニ非ズ、毛利重能ガ明ヨリ模ラシ来リタル汝思甫ノ珠盤ヲ模シ、大津ノ工匠ニ命ジテ作ラシメタルモノト同種ナラン。如何ニ之ヲ近シト見ルモ寛永十一年以前ニ在ルコト疑フベクモ無シ。果シテ然ラバ、此器ハ今年ニ先ツコト実ニ二百七八十年以上ノ者トス。憶フニ田中ハ旧家ナリ、其祖先ガ重能光由等当時ノ珠盤ヲ買求テ之ヲ世ニ伝来使用シタルモノナルモ、
惜哉往時ノ弊トシテ之ヲ貴重セズ、粗末不慎ニシテ斯クハ大破ニ及ビシナラン。
生ガ考フル所斯ノ如シ、尚ホ有識諸君ノ考断ヲ待ツ者ナリト云爾。
                 帝国学士院嘱託員
                    後  学     遠藤利貞識   ㊞
   明治四十三年十二月

 右の内、古珠盤に関する学説の部分は、今日に於ては学者に異論をさしはさむ人もあらうが、日本品にしても支那式の味豊かなものである。而してその年代の推定は大体に於て
同意者も多からうと思ふ。
 以上、前田家、片岡家、田中家の三品を以て、私は凡そ十六世紀頃の「支那式日本そろばん」の遺品の一系統と仮想する。

『算顆随想 続』山崎與右衛門著 S52.5.29 暁出版(珠算界 S51.9)

P.77
 「日本学士院の古算盤」 
【写真】  長さ37.3p 天地 中央14.7,右端15.4p,左端15.1p
  この写真は私が21歳のとき(T6〜7:1917〜8)、友人の報せで日本学士院にあることを知り、神田淡路町の江本写真館の御主人と共に撮影に行った古い記憶がある。
  偶、数十年見かけなかったこの写真がこの頃見出すされたので、いまどうなって居るであろうかとの好奇心から、去る(S51年)八月一日、炎天の中を日本学士院に赴き、受付の娘さんに持参した古い写真を示したところ、直ぐに保管場所から現品を出してきて私の座席の前に置かれた。
  箱の中にある古算盤は六十年近くを経過しても少しも変っていないのが印象的で、私はひとりで微笑(えみ)をもらした。
  この古算盤の桁数が十三桁なので、古い中国算盤十三桁のものと比較してみた。
  全体の長さ、幅に変りがないが、(中国製と)比較して構造や珠の形態が全然違って居る。日本で算盤が製造されるようになって間もなく作られたものと想像されるが、日本的性格を充分に帯びている。
  古算盤に残された十九個のうちやゝ大きいのが、この算盤に始めからあったもので、九個か十個である。その他の珠は他の算盤珠を補充したのではあるまいか。珠は轆轤(ろくろ)で作られたと思うが、初期の算盤珠には一個ずつ鑿(のみ)で作られたのもある。

  遠 藤 利 貞  えんどう・としさだ   1843.1.15〜1915.4.20

 旧姓 堀尾、号は春江、春峰、幼名は多喜之助、堀尾家は、浜松・松江城主の家系。
 堀尾家に入ってから、父より算術を、また江戸藩校立教館で学んだ。
 和田寧の高弟 細井若狭より天元・点竄、円理を修めた。
 明治維新の戦乱に際し桑名藩に属した。敗戦後、藩校(立教館:吉野丸学校)の数学教師(和算)となり時勢を判断、洋学を学ぶべく明治5年上京、数学塾(苟新館)に入る。
 後には宮崎学校、東京府師範学校分校、東京府代二中学校等多くの学校の数学教師を勤めた。
 この頃「東京数学会社」の結成にも参加、和算史の編集を立志し、和算の系統とその内容の探求のため原本の筆写に多大の時日を費した。
 『大日本数学史』は明治11(1878)年に着手、16か年の長年月を明治26(1893)年5月に上・中の2巻を、6月に下巻を脱稿した。同月 日本教育会においてその要旨を発表、同会誌第100号に登載した。出版する書肆がなく、辻新次、菊池大麓の助力を得て、三井八郎右衛門の出費にによって刊行できたのは、明治29(1896)年11月のことであった。全篇3巻、一頁15行、一行30字、445頁である。和算史上特筆すべき大業績である。
 翌年より、遠藤は理科大学等の命によって全国各地に出張、研究調査を継続した。
 明治39(1906)年からは、帝国学士院において和算書の蒐集・調査にあたった。
大正4(1915)年4月20日病没した。この時「勲六等瑞宝章」を叙賜された。
この間、増修版原稿を友人・門弟の岡本則録・岡田武松・中村清二にたくして出版を委嘱した。
遠藤の没後、三上義夫が遺稿の整理に努力、大正7(1918)年『増修日本数学史』を出刊した。今日ではさらに平山 諦の努力で増補改訂され、昭和35(1960)年版が刊行頒布されている。 (本田益夫著『筑前高見神社算額と和算史概略』昭和61年6月1日より)
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2011年06月12日

乳井 貢と『版籌(はんちゅう)』


   乳井 貢と『版籌』


 前号で述べたとおり、「青森地方珠算史」にて、≪乳井 貢≫の『版籌』なるものを知り、青森の佐々木信一先生にお願いして、資料をいただきました。
いただいた『版籌』を読み下してみると、それは、【版籌】という筆記具を使って計算をする方法で、漢数字で縦書きの筆算でした。(以下【版籌】は器具、『版籌』は解説書。)

『版籌』について考察するとともに、その側面からみた「乳井 貢」と和算について考えてみたい。前号と重複するところもあるがご容赦くだ さい。

1.計算用具の【版籌】とはなにか。(前号をご参照ください)
(1)「大きさは自由」とあるが、「懐紙に挟んで持ち歩く」とあるから、二つ折であるので、開くとおそらくB5かA5用紙程度と考える。
(2)全体は、漆塗り(朱・白・黄色)の木製の板で、二枚を蝶番でとめたものである。
(3)漆塗り・抽斗つきの古ソロバンがあるが、これは屋外で使用するとき、抽斗(裏板)を引き出して、計算の結果を矢立の筆でその裏板に記録し、用が済めば雑巾などの濡れ布で拭きとる。これと同じ要領で使用する。明治の頃の学童が使用した「石盤」と同じ用途である。
  「石盤」:粘板岩の薄板に木製の枠をつけて、蝋石などの石筆で文字・絵などを書くようにしたもの。布で拭くと消える。明治期に学童の筆記練習用に使われた。
(4)漆塗りのものを復元できればと思ったが、ラミネートで作製すると水性ペンで書いたあと布で消して使用できる。

2.『版籌』〔天明五(1785)年・乳井 貢著〕の目 次
      版籌用法
      除  法
      乗  法
      累  法
      開 平 法
      開 立 法
    ◎この時代の算書の通例として。加減は省略し除法から始めている。

3.『同文算指』と『暦算全書』の乗・除法
   『版籌』の前に『同文算指』と『暦算全書』の乗除の計算方法について掲げておきたい。 
(1)『同文算指』(マテオ・リッチ口述・李之藻記述・1614年)の乗・除      
  4300678×600394=2582101267132    1623149÷289=5616…125
         四三〇〇六七八         一       
  六〇〇三九四       一一二
        一七二〇二七一二       二五四一
       三八七〇六一〇二        陸七〇六
      一二九〇二〇三四         四弐八八二 
     〇〇〇〇〇〇〇〇          五六参九七
    〇〇〇〇〇〇〇〇          壱八〇七七五五       二八九
   二五八〇四〇六八           壱陸弐参壱肆玖( 五六一六 一二五     
   二五八二一〇一二六七一三二       二八九九九九     
                       二八九八八
                        二八二
                         二

◎乗法は、漢数字を使用しているが現行の計算と同じである。
◎除法は、中世イタリアの「ガレー法」と同じである。末尾の分母・分子はガレー法と上下が逆である。この方法をイギリスでは「抹消法」という。
    *ガレー法は、珠算での計算の「盤面数」を記したものであるが煩雑で、途中で休むと分からなくなったり、誤算も多かったので次第に廃れていったということである。
◎九去・七去検算法がでている。
   ◎余乗法(1桁の掛け算)が出ている。
 ◎『同文算指』は「禁書目録」に含まれている。
(2)『暦算全書』(梅文鼎著・1723)の乗・除
   30058×905=27202490 86680÷88=985
     得
     二 二                  減 得   実 
     七 〇七○ ↓                〇 両
     二 〇〇〇〇一↓ 実            七 九 銭 八 八 〇
     〇 四〇〇〇〇五 三          六七二 八 分 八 六 七〇
     二 七五〇〇〇〇 〇         四六四二 五 厘   六 四四   
     四  二〇〇二〇 〇          四〇四   法 八 四〇  
     九    〇四五 五            〇     〇
     〇      〇 八
九 〇 五法
   ◎乗・除ともに、漢数字を使用し、且つ縦書きである。
   ◎現行と同様に、分子積(九々の答)を全部書いている。3×5=@D
   ◎『同文算指』と同様の、九去・七去検算法が出ている。
 
4.『版籌』における、除・乗法
   つぎに、『版籌』の除・乗法であるが、他の和算書と同様に、除法、乗法の順に述べられている。(前号参照)

5.『版籌』考案の背景
◎社会が、読み書きや計算の能力を必要とした。
   兵農分離の結果、武士・領主層は都市居住となり、領主の村落支配は、上からの触書・法度の伝達、下からの報告・訴状の提出など高度な文書処理能力が必要になった。
  一方では、大量の年貢米の商品化により、全国的な規模での商品流通が盛んになって、計算や測量の能力が必要であった。
 乳井貢は、数学についてつぎのようにいっている。
「人は、生まれて死に至るまで、一日として数を云わざることなし」
「士農工商共に数を学んで、その徳を知るべきことなり」
 ◎ソロバンを学べばよいが、前号の『初学算法』で述べたように入手が困難であった。

6.『版籌』の内容について
 『版籌』で述べられているのは、横書きと縦書きの違いはあるが(暦算全書の影響か)、正に現行の「筆算」そのものである。
乳井 貢の発想について「四つ玉ソロバン」の提唱だけがクローズアップされているが、私はむしろ『版籌』で取り扱っている「筆算」とその前提としての「位取り記数法」を挙げたいと思う。
 日本で最初に現在の「筆算」に相当するものを、ほとんど独自に【版籌】なる用具を考案し、実用に供したのは≪乳井 貢≫であることを、声を大にして訴えたい。
 
7.筆算について 
(1)中国での筆算
当時の中国では、筆算のことを「写算」といった。『算法統宗』(1591年)の巻之十七では『写算』または『鋪地錦』(ここでは、十を一□と表示、□=空白のこと)といって、イギリスのジョン・ネピアが著した「ネピア・ボーン」といわれる「格子掛算」が記されている。
 しかし、『写算』は、ただ単に乗除の計算をして答を求める作業だけであって、インド数字の「位取り記数法」を意識した筆算としては、つぎのような経過をたどってわが国に伝わったのである。
 1583年キリスト教伝道のため中国入りした、マテオ・リッチ(中国名:利瑪竇)は、ローマ学院で学んだ知識の一つ数学を李之藻に教え、二人で『同文算指』(1614)を著した。それらを咀嚼した梅文鼎は1723年『暦算全書』を著した。
 『暦算全書』は時をおかず1726(享保八)年には『数度衍』(方中通・1661)と一緒に、渡来した。
時の将軍吉宗はこの訳述を建部賢弘に命じ、賢弘はこれを高弟中根元圭に託した。賢弘・元圭は1733(享保十八)年その任を果たし奉呈した。
 『版籌』の序に「梅 九定が『暦算全書』に簡法筆算の法あり…」とある。
『暦算全書』24冊の内の19冊目が『筆算』で20冊目は『籌算』であるが、ここで述べられている「籌算」は「ネピア・ボーン」を改良したものである。
(2)和算での筆算とは
大矢真一著(数学史研究 31号)によれば、
「算木で方程式を立てるまでの過程を全部頭の中でやらず、次々の変化を紙の上に書いておくことである。こうすれば立式は容易になる。それを考えたのが関孝和の筆算である。のちにこれは『点竄(てんざん)』と呼ばれた。和算における筆算はこのような道筋でうまれたのであるから、数の計算で行われなかった。それはソロバンや算木を用いられたのである」
(3)現在でいう筆算とは
算数教材研究講座『数と計算』金子書房(昭和34年2月10日) P.149
「暗算における困難点は、その計算の過程で数の記憶を継続せねばならぬことである。この大きい数、複雑な数の計算を必要とする場合、繰り上がり、繰り下がりが、心力を労しないで、容易に、能率的に、不必要な記憶はできるだけさける方法が筆算といわれるもので、視覚的な方法を用いて、複雑な思考過程をできるだけ単純な計算過程に分析して、より能率的に式、記号、計算の法則、記数法等の数理に基づいて演算を行う。これが筆算である。……この筆算形式のよる加法・減法は、それだけにとどまらないで、さらに乗・除からより高次の算法へ、さらに文字の演算に発展し、いわゆる高い数学の演算に関連をもつものである」
(4)筆算優位説
後年ではあるが、『西算速知』(1857・福田理軒著)の「凡例」につぎのように述べられている。
「筆算は、弾珠(尋常の算珠盤なり)或は運籌(籌さんをいふ)等によらず帋上(紙上)に書記し其数を求る術にして、除歌を用ひず九々の声をも知らずとも、加入減去の技より帰因乗除の業、日用堅務の諸法をも時日を費さず一日にして会得し一筆半楮を以て自由に用便する法なればよく熟練の上においてはたとへ幽僻の地域にして紙筆に乏しくとも地上に画して其数を得べし、故に行路の間航海の上軍陣の前或は馬上輿中に在ても器具を用ひず、胸中に其要を得ること他術の及ぶ処にあらず」と筆算の優位性を説いている。

8.『版籌』での「位取り記数法」
 当時の多くの和算家も、ソロバンの布数法が位取り布数法であることから、数の把握にあたって、なんとなく位取り記数法的認識はあったと思われるが、
 @ソロバンも算木も横表示であって、記録する数字は縦表示である。
 A天二地五のソロバンでは、一桁に15まで、算木では一桁枠に限度なく布数できる。
このことが、位取り記数法の確立まで及ばなかったのではないか。
 そのような時代にあって、乳井は
 @縦書きの位取り記数法を採用している。
 A零を{〇}で表示している。(算法統宗では空白である)
 B掛け算の総九九(81個)を使用している。
 C帰除法の全盛時代に、九九を利用した筆算(商除法)を採用している。
 D定位法の重用性を徹底して説いている。

9.位取り記数法とは、
(1)特定の数を表す数字または数詞を定める。
  漢数字の一から九までの9つの数字と、〇(ほし)を使用。
(2)零(0)の概念を理解する。
* 空位を示す記号としての零(0)
* 演算の対象としての零(0)
   数としての0の性質(A+0,A−0,A×0など)
  (3)記数法の理解
    各位格に@でいう数字を割り当てて、同じ数字を繰り返し用いて任意の数を表せることを理解する。
      例  十を一〇    
         三十を三〇   三十三を三三    
百を一〇〇   百五を一〇五
         九百九十九を九九九  千を一〇〇〇
  (4)十進法と位取りの理解
    ある大きさ(十進法では十)に達すれば、一まとめにして位を上げ、上位の一として扱う。
      例  九たす一は、一〇ということ     
         九十九たす一は、一〇〇ということを知る
   
10.零の数学的性質         
  (1)無の0     
    メソポタミアにおいて、シュメールの時代からあった。
  (2)空位の0
    位取り記数法において、空位を表す記号としての0
    古代インド、マヤ文明、古代バビロニアでも使用。
  (3)演算の対象としての0
    7世紀のインド人ブラーマグプタの書物(628年)
    この時点をもって「0の発見」といわれる。
      例  0匹、0箇
  (4)基準としての0
    正負の境としての0
      例  0℃  数直線でのO(オー)
 *零は、現在でもこれらの側面を包含して使用されている。

11.『初学算法』(安永十:1781年)における、乳井 貢の主張
乳井の主張は、往々にして「五つ玉」から「四つ玉」にすることと錯覚しがちであるが、中国流でいえば、「七珠ソロバン」から「五珠ソロバン」に改革することを提唱したのである。このことは、当時としては思いもよらない画期的なことであって、世間には受け入れられなかったと思われる。そして、普及しなかった理由としては、
@乳井の考えがあまりにも画期的であったこと。
A乳井が津軽在住であったこと。(移入より、移出面で)
Bかてて加えて、乳井が専門の算家でなかったことがあげられると思う。
 ご承知のように、小学校で「四つ玉ソロバン」が採用されたのは、160年後の昭和13年の『尋常小学算術』第四学年児童用下(緑表紙)からであり、一般に普及したのは、それからまだ10年後のことである。それと呼応したかのように算法も、割算が「帰除法から商除法」に、その後定位法の関係もあって「頭乗法から新頭乗法」に移行した。
 大阪では、森友 建先生(前日珠連理事長・大珠協会長)を中心にした委員の方々が「外国人指導」を実施しており大変な功績をあげているが、もし現在でも「四つ玉ソロバン」と「商除法」でなければ、合理主義の欧米人には決してすんなりとは受け入れなかったであろう。また、現在の「暗算の普及」もなかったと考える。
 博学の人であり、経世家あった≪乳井 貢≫の、その優れた洞察力は二百年後を予見していたのであろうか。

12.乳井 貢の評価
(1)博学の人であった。
   『版籌』の序文に「河図・洛書」のことに触れており、「太初の聖人は教を数に始めて河図を示す、次いで洛書を教ゆ、幼童の時より数を教えしとは礼経に見えたり、孔子 易に曰く 一、二、三、……八、九、十 是を合わして五十五変化を成して鬼神を行(や)る所以なりとのたまえり」とあって、『初学算法』にも同様の言葉がある。
   他の著作からも推して、和・漢・竺の書に精通していたらしく、『四書・五経』『礼経』『易経』なども渉猟していたのではないかと思う。
   梅文鼎の『暦算全書』(1723年)は、1726年長崎に渡来、中根元圭が訳して、建部賢弘が時の将軍吉宗に奉呈したのが1733年である。
   それから50年ほどの間に入手し、理解していたのである。もっとも、乳井が特に好んで傾注したものに「易学」があることから、ぬべなるかなとうなずけるところである。
(2)算学に精通し計算に堪能であった。
  @版籌での数の取り扱い方をみると数論に精通していたことが強く感じられる。一部地域での「亀井算」を除いて、帰除法全盛の時代に九九の「六五三十」と割声の「六五八十二」とをとり違えるおそれがあると述べている。
  A開平・開立については、他の算書と異なる解説である。
  B定位法の大切さを力説し、徹底して説明している。
(3)参考にしたであろう算書
  @暦算全書、割算書、塵劫記、数学端記をはじめ亀井算も知っていたのではなか。 
A方円秘見集(多賀屋経貞著 1660年)
    「勘定に十の心得」   
    一 心をしずめること
    二 実法を思案のこと
    三 かけた方がよいか、わった方がよいかを考えること
    四 算を静に行なうこと
    五 わりおさめを覚え考えること
    六 かけ割言葉づかいに心をつけること
    七 桁違いをせぬこと
    八 わり算はかけて、かけ算はわって検算をすべきこと
    九 はじめにおくときも、わりおさめた後もとび桁に注意すること
    十 読み違い、書き違いのないように心づけること
  B因帰算歌(今村知商著 1640年)
   「かけさんは 一桁九因長桁は 因乗なれば よせのせそする」
   「かけさんは よせのせそする算なれは みしかきかたを よせのせもする」 
   (乳井・初学算法)「乗にはどちらを法にしてもよし、法は左実は右に置なり、
右を実と云、左を法と云、法は桁数の少なきを用ゆべし」
  C算法勿憚改(村瀬義益著 1673年)
   「九九は是 掛算なれば長短の みぢかき桁を法に用いよ」
   「八算のこえをわすれし其のときは くくにてさがし出すべき也」(商除法)
   「見一のおかれぬときは 作九一 過(すぎ)は一進 たらずは倍一」
  D数道初術前集(東房軒著=田中佳政の門人 1703年) 
   『修行の大意十か条』―6―
   「数の道は学ばずともよいかの問いに対し、怒って曰く、上古君臣の差別もなく、文字の無いときはそれで良かったであろうが、五倫の道、礼儀の法、文字が作られてから諸道も興ったのであって、人とうまれて飢寒からず渡世ができる。尊きと卑しきとの違いこそあれ、それぞれの数学があるので学ばねばならぬ」
『初学算法』『夫数は士の算有り 農人の算有り 職人の数有り 町人の数有り」
(版籌)「夫数は学ばずんばあるべからず、人生まれて死に至るまで一日として数を云わざることなし、上は天子の尊きより、下は庶民の卑しきまで時々数の用なきこと能ず」 
(4)思考が合理的であった。
  @命位を覚えなさい。
   ただし、大は「兆」まで、小は「沙」まででよい。それ以上知りたければ、諸書を見て自分で調べなさい。(現在でも、これで十分である)
A九九は暗誦しなさい。
   一位と十位の二桁だけである。
  Bかけ算の法は、桁数の少ない方を置きなさい。
  C位取り(定位法)が大切である。
   盤面だけ合っても、位取りを知らなければ欠けた計算である。
  D数字も考案している。『版籌』の最後に暗瑪と思われるものを掲載している。

13.【版籌】が普及しなかった理由
  @乳井 貢が和算家ではなかった。
  A弟子が算学の継承者にならなかった。
  B弟子たちに基礎的な数の素養がなかった。
  Cソロバンが普及する以前に考案されておれば、可能性はあった。
   ソロバンでは、割声により、特段の思考を要せず機械的にできた。
  D一般には、位取り記数法のしくみの理解が困難であった。
  E必要度が低かった。
  Fとっつきにくかった。
   憶える。考える。習得までが苦痛であったと思う。
   明治5年の学制頒布後も、「洋算」移行が困難で、珠算の併用を認めたことからも容易に想像できる。

14.『版 籌』について
薮内 清著『中国の数学』に「『暦算全書』と日本の和算との比較で興味があるのは、『幾何補編』にみえる《大円容小円法》である。」とあって、一方で「もちろん時代的にみて、和算がこの種の問題で梅 文鼎の影響を受けたことはないであろう」とある。
しかし、 乳井 貢の『版籌』は『暦算全書』の影響があったと思われる。
それは、つぎの序文の「『暦算全書』の著者を梅九定」といっていることと、「珠盤」をそろばんと呼んでいる(『初学算法』では「そろばん」といっている)ことである。

15.観中算要〔文化十四(1817)年・乳井徳弥建徳・貢の子孫によって出されたものであろう(佐々木信一先生)〕については、『観中算要』を平易にしたのが『初学算法』であるということなので、目次のみ掲げることにします。
目 次
      定 位、本 位、
配 位、
乗除位の法、
平 方、
立 方、
差 分、衰分、
損 得、盈 虚、
度 量

 このように、乳井 貢は生涯を通して庶民の生活向上のため、自己研鑽に裏打ちされた豊富な見識による常に新しい発想の実現に尽力したのである。しかし、革新にはこれまた恒常的に反対勢力が存在して抵抗してくるものである。そのたび重なる謫により二度にわたって失脚するも、復活してその生涯を全うされたのである。
 その優れた「進取の気性」と種々の困難に立ち向かう「精神力」には、いよいよ感嘆景仰するところであります。
                              (「珠算史研究」第56号所載)

posted by そろまんが at 16:28| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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