2010年06月21日

乳井 貢と『初学算法』

乳井 貢と『初学算法』

          
 先年「青森地方珠算史」にて、≪乳井 貢≫の『版籌』なるものを知りました。
 その「算木・そろばんを使用しない特別な算法を説いたもの」という言葉に興味をひかれましたので、青森の佐々木信一先生にお尋ねして資料をいただきました。
 これまでの私の≪乳井 貢≫についての知識は、「珠算史」の中で「四つ玉ソロバン」を提唱した人として単に名前を知っている程度であったのです。
 佐々木先生からいただいた種々の資料によって、≪乳井 貢≫のことを徐々に知ることができました。
 年表によると乳井は「大坂詰め」をしたことがあるということです。たまたま私の住まいが、江戸期「天下の台所」といわれ「一手(ひとて)千両の華が咲く」と謳われ、「蔵屋敷」があったといわれる「大坂の堂島」から2,3キロの地点ということで、親しみを感じます。
 平成24年には≪乳井 貢生誕三百年≫になるということで、その著『初学算法』や『観中算要』『版籌』を通して乳井 貢の主張などを分析してみたいと思います。

1.≪乳井 貢≫の人物像
まず、乳井 貢の人物像を、いくつかの資料から探ることにする。
(1)【東奥日報より】(平成4年2月3日)
 にゅうい・みつぎ 正徳二年(1712)〜寛政四年(1792)
弘前藩士、7代藩主津軽信寧に重用され1753(宝暦3)年1月勘定奉行、55年12月に財政の最高責任者・元司職となる。
 宝暦の改革では、@行政機能や権力の一元化A耕作地の調査、整理B士分取り立てを見返りに商人を活用…などを行った。中でも「標符発行」が最も注目に値する。他藩では、貨幣の代わりに藩札という札を使うケースはあったが、標符のような通帳は例がなかった。
 儒学者の乳井にとって、身分相応を前提としつつも生活物資・富の平均再分配化を図るという自らの思想の反映でもあった。
(2)【青森地方珠算史より】(昭和55年10月26日)
   名は 初期  彌三左衛門    中期  市郎左衛門(元文元:1736)
後期  貢 建富(建福)
 弘前藩七代藩主津軽信寧より、藩財政立て直しの功によって
   「いく年も 四季の間耐えぬ 貢かな」の発句に添えて下名さる。
 貢は経世家であるが数学にも優れ、二十歳の頃には『識量問答』(1785年頃)を著した。その内容は中学の数学程度である。
 川原平に牢居中の安永十(1781)年正月、川原平村の虎蔵に与えた『初学算法』(横本)がある。又、『観中算要』(1817:貢の子孫によって出されたものであろうー佐々木信一先生)がある。前者は後者を平易にしたもので、共に数学の初歩を説き実用を主としている。『円術真法方円伝』は、円と正多角形の性質を述べている。ほかに『町見術』もあるが、天明五(1785)年の 門人 工藤清助の序(この稿では省く)のある『版籌』は、算木、そろばんを使用しない特別な算法を説いたもので、算法としては珍しいものである。
専門の算家ではない、乳井 貢は、「算書」のほか、『国制条目』『五蟲論』『津軽名臣伝』『深山惣次』『可楽先生詠歌字徳敬』などを残した。
(3)年  表 【乳井 貢先生小伝より】
1712(正徳2)  ≪乳井 貢≫ 誕生
1714                       ≪凶作≫
1721                       ≪飢餓≫
1722                       ≪飢餓≫
1731〜32  『識量問答』刊行 
1735  1/15 御手廻五番組 見習
1736  9/15 家督相続(百五十石)  11/11 小姓組  市郎左衛門に改名
1738     『国制条目』刊行 
1749  4/7 近習小姓小納戸帯御用         ≪凶作≫
1751    長病により役御免願
1752  3/28 御手廻五番組  8/28 寄合席
1753  1/11 勘定奉行
1755   江戸詰 12/23 元司職(財政の最高責任者)御側帯御用席 ≪凶作≫ 
1756   入部  9/ 「標符(諸品通)」発行 11/1 「貢」という名を拝領
1757  3/3 禄 千石 家老職 7/ 「標符」停止 9/ 大坂詰  ≪不作≫   
1758  2/  下国  3/16 下着  3/17 退役  7/3 家召上、三上屋敷預
1768  6/14 預御免
1773                        ≪旱魃≫ ≪時疫流行≫ 
1775                        ≪疫病≫
1776                        ≪不作≫   
1778  9/1 勘定奉行(知行百五十石)
1780  6/3 役御免 知行召上の上 川原平村牢居
1781     『初学算法』著作
1783                        ≪大凶作≫
1784  4/15 牢居御免               ≪大凶作≫
1785  8/12 生涯五人扶持  『版籌』刊行
1792(寛政4)  4/6 死去 八十一歳
1817     『観中算要』刊行
(4)乳井の業績の一つとして、『日本災害誌』という類の書物には、いつも津軽が困窮した事が記されてあり、また、この年表にも示すように、「当時の奥羽地方は、飢餓・大凶作がうち続き、乞食が殖えて、飢渇に呻吟する者が小屋に何千何百と転がるほどの惨状を呈したという。しかし、勘定奉行となった乳井は、藩政の改革を積極的に推進し、津軽藩内からは餓死者を全く出さなかったという。」【青森地方珠算史】
(5)「乳井 貢」の碑文(青森県中津軽郡西目屋村川原平)
津軽ノ地タル山高ク水長シ此所ニ乳井貢先生ノ出デシハ洵ニ偶然ナラズ先生和漢竺ノ学ヲ修メ就中易教ノ奥義ニ達シ心ヲ経済ニ傾ケ著述頗ル多ク而モ堂々烈々タル自説ヲ加ヘテ其ノ意ヤ恍洋其ノ言ヤ緊切後進ヲ導キテ倦マズ津軽藩勘定奉行トナルコト両度ヨク時難ヲ済ヒ奮弊ヲ革メ外ヶ浜ノアイヌ族ヲ平民ニスル等達見ト治績ト嚇々タリシガ後謫セラレテ川原平ニ居リ里人ノ蒙ヲ啓キ山川ノ利ヲ通シ恩沢四方ニ溢レシガ寛政四年四月六日齢八十一ヲ以テ豪毅卓抜ナル生涯ヲ終レリ今其始終ヲ稽考スルニ先生ノ如キハ実ニ稀有ノ人傑タリ長谷川進氏目屋村出身ノ故ヲ以テ先生ノ遺風ヲ長ヘニ伝ヘ常ニ世人発奮ノ資ト為サントシ昭和九年十二月乳井貢顕彰会ヲ作ル委員之ヲ賛シ遺著ヲ刊行シ且石ヲ目屋沢ニ求メテ茲ニ敬仰記念ノ碑ヲ建ツ即チ此由縁ヲ刻シテ後人ニ示スコト爾リ
 昭和十年六月        裔孫 乳井龍雄 題額  中道 等 撰並書

2.『初学算法』について
 当時の算学について、乳井が多くのことを主張している『初学算法』を私流に考察してみたい。

(1)「初学」について
  『初学算法』の名称について考えてみたい。
私蔵の「和算書」に何冊かの「写本」があって、その中に『八橋流算法初心抄(57丁)『関流算機(13丁)』『八算見一(5丁)』『初学算法最上流(16丁)』があります。
  いずれも、白紙の和紙で和綴じ(紙縒りでの仮綴じ)であって、当時も和綴じの帳面が市販されていたものであろう。
  中でも、最後の『初学算法最上流』は、銀色の匡郭(冊子本で、本文の四周を囲む外郭)が摺られているのです。この算学塾では、写本用に匡郭(きょうかく)のみを印刷した「用紙」を備え付けてあったのではないかと考える。
  「野口泰助」氏の「和算書について」(平成9年)
  伝授本にも師匠が元本揃で所持していて、標題と匡郭のみ刷った用紙に段階的に巻之幾つと書き入れ弟子に内容を少しずつ写し与えた物もある。匡郭のみ刷った用紙は自分用の原稿紙にも使用、『算法通書』なども刊行前に匡郭のみの用紙に筆書きしている。
  また、算書の中にも、『算元記』(藤岡茂元著、明暦三:1657年)が、寛政十二(1800)年に『初学算法記』と改題して再版されたとあります。
  このように、当時は「初学」という言葉がよく使われて、学問などを学び始めたばかりの事、またはその人をいったのである。
そこで乳井の『初学算法』であるが、奥書に「川原村 虎蔵殿」とあることから、貢が二度目の幽閉中に村内の文字を知らない里人に「漢学」や「算術」を教えたときに使用したものであろう。
  しかし、前述の写本からみても、乳井の『初学算法』もこの書のタイトルではなく、「初学者に教える算術用の入門テキスト」ではないかと思う。そして、主張の内容から推して虎蔵という個人のためだけに作成したものではなくて、入門用の教本として何冊か作成した中の一冊でなかったかと思う。
  なお、別稿の『版籌』は、門弟 工藤清助が序において「…今は乳井先生がこの書を著す。…宮崎氏にこの梓を請う。梓行すれば数を学ぶ徒は争って之をたよる。…」とあるので、多数を版行したことは確実である。

(2)「算勘の重要性」について
   『数道初術前集』(東房軒著=田中佳政の門人、元禄十六:1703年)に、
  「修行の大意十か条」があって「数の道は学ばずともよいかとの問いに対し、怒って曰く、上古君臣の差別もなく、文字も無いときはそれでも良かったであろうが、五輪の道、礼儀の法、文字が作られてから諸道も興ったのであって、人と生まれて飢寒からず渡世ができる。尊きと卑しきの違いこそあれ、それぞれの数学があるので学ばねばならぬ」とある。
 『初学』で乳井は、「夫 数は士の算有り 農人の算有り 職人の算有り 町人の算有り、別而国を富し 民を饒にし財用を足らしめ 国主に代り上に立つ人は必学び知べき事也、軍法にも算多き者は勝、算少なき者は負ると有り、算は則度量を云、度量は数なり」といい、 『版籌』では同様に「夫 数は学ばずんばあるべからず、人生まれて死に至るまで一日として数を云はざることなし、上は天子の尊きより、下は庶民の卑しきまで時々数の用なきこと能ず」と、算に明るいことの重要性を説いている。

(3)「河図・洛書」について
   河図・洛書の図を掲げて「孔子といへる聖人 易の書物に書付 鬼神を行ひ変化をなすもの」といって、数理の根元としている。
   この二つの図は、易や方陣の根元ともいわれてよく見受けるように思われるが、算書の掲載は意外に少ない。
中算書・朝鮮書・和算書で「河図」「洛書」の図が掲げてあるものは、多くの算書の中でも私の目についたのは、つぎの算書であった。
   中算書 『続古摘奇算法』(楊輝著、1275年)「洛書」(後世の「河図」)のみ掲載。※この「河図・洛書は、南宋の時代に名称が逆になり、昔の河図が洛書、
   洛書が河図となった。」(薮内清著『中国の数学』)
『九章詳註比類算法大全』(呉敬著、1450年)
『算法統宗』(程大位著、1593年)
       『数理精蘊』(梅殻成 他著、1721年) 
朝鮮書 『九数略』(崔錫鼎・17世紀末)
和算書 『新編算数記』(奥田有益著、天和三:1683年)
『頭書算法闕疑抄』(磯村吉徳著、貞享二:1685年)
『数学端記』(田中佳政著、享保二:1717年)
『初学算法』(乳井 貢著、天明元:1781年)
『算法稽古図会大成』(著者不明、天保二:1831年)
『真元算法』(武田真元著、天保十三:1842年)

(4)「命位」について
    数位の名として、
    一、十、百、千、万、十万、百万、千万、億、十億より上千万億迄  万々億を兆と云   分、厘、毛、糸、忽、微、繊、沙  を記し、
    「兆より上、沙より下、有りといへども今日に用なし、此故に是を畧して記さず。若し上達して知らんとする時は諸書を広く見る故おのづから知り得べし」といっている。
   「万々億を兆」としている「算書」を列挙してみると、
    中算書 『孫子算経』『数術記遺』『算学啓蒙』『算法統宗』
    和算書(1781年以前)『因帰算歌』『新編諸算記』『数学端記』『算法勿憚改』
があげられる。
乳井は数学を『算法統宗』『暦算全書』『塵劫記』等多くの算書から学んだと思うが、「河図・洛書」の掲載と「命位数」からみて、郷土の先人である田中佳政の『数学端記』を、一番に参考にしたことは間違いないであろう。

(5)「九々」について
    この時代に「総九々」を使用しており、「割り声」との混乱を指摘(六五八十の二と六五三十)し、「六八四十八引と云ふべし」から「亀井算」も目にしていたであろうということが想像できる。亀井算の「九九合数」は純九九の45句で、「九帰法」の中に、「五八作 六八二残(五ヲ八ニシテ 六八二Aノコス)」がある。
    『数学端記』では、九九のことを「四十五因数」と呼び、算木を改良した「龍籌」という算器を作って、乗除ともに算木とおなじ方法で計算している。なお、割算は商除法である。(これが、「版籌」の考案につながったのであろう。)

(6)「定位法」について
    『初学算法』『版籌』『観中算要』ともに、乳井が重要視しているのは、「定位法」である。『版籌』は(別稿で後述する)現在でいう「筆算」なので方法が異なるのは当然であるが、『初学算法』に記されている方法は、「定位布数法」である。
    「定位布数法」とは、私も使っている方法で、「答が盤面の定めた位(現在は一位)にくるように、あらかじめ考えて実を布数する定位法」である。
    『珠算算法の歴史』によると、「当時の商人に必要なことは、ただ、数値を知るということのみであった。」とあるように、定位法にふれているものは少ない。あっても「実・法の首位で決定する定位法」を述べているものが多い。
そんな中で『算梯』(著者・刊年未詳:17世紀末?)のみが、「珠盤進退定位」という名でつぎのように述べている。
        先ズ位ヲ進退シテ乗ズ
        先ズ位ヲ進退シテ除ス
          乗除ハ法分位ナレバ実ハ動カズ
          乗ハ法一位ナレバ実一位進ム
            除ハ法一位ナレバ実一位退ク
          乗ハ法厘位ナレバ実一位退ク
         除ハ法厘位ナレバ実一位進ム

◎ 例 題
  割 算(帰除法)
例1. 2,250,000俵÷180=12,500俵         百十
     実の首位の位から、法の桁数だけ       万万万千百十一
     右へ移動した位から布数する。        *一十百
     答が万の位から125となるので、        →→225
     答は、 12,500俵  である。     答    125
例2. 130,000石÷0.65(6分5厘)=200,000石    百十
     実の首位の位から、法が6分なの       万万万千百十一
     で、右へ一 左に分と移動した位        *→  
     から(元に戻る)布数する。          分←
     答が十万の位から2となるので、        13 
     答は、 200,000石  である。      答 2
例3. 143,000÷0.055(5厘5毛)=2,600,000  百十
     実の首位の位から、法首が5厘な       万万万千百十一
     ので、右へ一 左に分厘と移動し        *→
     た位から布数する。             厘分←
     答が百万の位から26となるので、      143
     答は、 2,600,000 である。     答 26
  乗 算(頭乗法)
例1. 12,500俵×180=2,250,000俵         千百十
     実の首位の位から、法の桁数だけ       万万万万千百十一
     左の位から布数する。            百十一* 
     答が百万の位から225となるので、      ←←←
     答は、 2,250,000俵  である。       225
                         答   225  

例2. 8.7(8寸7分)×0.55(5分5厘)=4寸7分8厘5毛
     実の首位の位から、法首が5分な          寸分厘毛
ので、左へ一 右に分と移動した         一* 
位から布数する。                →分
答が寸の位から4785となるので、          87  
答は、 4寸7分8厘5毛である。    答    4785

   例3. 8寸×0.005(5毛)=4厘
        実の首位の位から、法が5毛なので、        寸分厘毛
        左へ一 右に分厘毛と移動した位から       一*
        布数する。                   →分厘毛
        答が、厘の位に4となるので、             8
        答は、4厘 である。             4

(7)「梁上の単位」について
    古そろばんの梁としては、「生地」「骨貼り」「紙貼り」があり。
    記入は、「陰刻」「黒漆書」「赤漆書」「朱書」などがある。
    単位は、米の容積 「萬、千、百、十、石、斗、升、合、勺、才」
        田の面積 「十、町、反、畝、拾、歩」
        金  貨 「斤、両、分、朱」
        銀  貨 「百、十、〆、百、拾、匁、分、厘、毛」
        銭  貨 「百、十、〆、百、十、文」
円 単 位 「十、万、千、百、拾、円、十、銭、厘、毛」
目  方 「百、十、貫、百、拾、目、分、厘、毛」
長  さ 「千、百、十、丈、尺、寸」
天  文 「十宮十度十分十秒十微十繊十忽」  などがあるが、
    「世間有合のそろばんは、一統俗用の為にこしらへたるもの故、桁に米金銭の名を書付置く故位の見やう致にくし、本法にあらず、書直し本数の名ばかりを書て用べし、物の名にてする時は数限り無き事なり、算する時は先物の名を省、本数の一十百千万分厘毛糸にて除乗を致し、扨其位定まりたる時米ならば何石何斗何升、金なら何百何十何両何分、銀ならば何十何貫目、銭なら何百何貫文、尺ならば何丈何尺何寸何分と一切の物の名は後にて付くべし。」と、「万千百十一分厘毛糸」を印せばよいといっている。
    注文して、せっかく苦労してやっと入手したソロバンの梁には、上記のような単位が陰刻されていたので却って不便であった。現に古ソロバンの中に陰刻した単位を削って直してあるものがある。

(8)「四つ玉ソロバン」について
    「俗用のそろばんは、五玉二つ下の玉五つにする。是何の用に立ぬ玉二つ有り、乗る時借り玉に用ゆると覚ゆる者あれども借り玉にして六より外借る事ならず、若  七より以上の数を借りる時は如何するや限りの無き事なり、夫数は一より九までのものにて九匁へ又一匁足せば十となる、十となれば又一に帰りて其所に置く事ならず上へ一と上るなり、九へ一を足てから上る馬鹿も無き者也。然れば下の玉一は末代遊びものにて用に立ず、もちろん上の五玉一は是又用なし、そろばんは五玉一下の玉四にすべし。」と説いている。
    江戸期の「四つ玉ソロバン」に関する図・絵等の史料として鈴木久男先生は、
  @『算法闕疑抄』(延宝二・1674年)壱巻34丁裏に、8桁のソロバン五珠一顆・一珠四顆(1桁のみ一珠三顆)が画かれている。(増補版にはこの絵はない)
A『算九回』(野沢忠兵衛尉定長 著、延宝五・1677年)に、天一・地四・9桁の四つ玉ソロバンの図があるが「当時、四つ玉ソロバンを使ったことを表しているわけではない」らしい。(児玉明人)
B1693(元禄六)年フランスで刊行された、ド・ラ・ルーブルの『シャム奉仕記』で、内容は「中国のソロバンが図入りで西洋に紹介された」もので、その解説に「…この道具は、しようと思えば、一方に玉を四つだけ、他方に一つだけつけることによって、もっと簡単なものにできる。こうすれば各々の棒に九まで表すことができ、しかも必要なのは、それだけだからである。…」とある。
   おそらく、ローマソロバンと比較して、単純にアラビア十進数の計算には、上一・下四で十分であるとの感想を述べたものであろう。
  C「威光山法明寺の梵鐘」東京都豊島区雑司が谷、鬼子母神本坊にある。
    旧の梵鐘は寛永二十一(1644)年に鋳造され、正保二(1645)年に消失、その後享保十七(1732)年に再鋳造された。下帯の部分に、五珠一顆・一珠四顆・6桁のソロバンが9面陽鋳されており、算盤・斗掻・枡・曲尺・銀秤が順に並んでいる。
  D『商人夜話草』(享保十二:1727年)
    挿絵に、五珠一顆・一珠四顆の12桁と13桁のソロバン図がある。

   乳井 貢は、上の内どれかを目にしたかも知れないが、「天二地五のソロバン」が一般的で全盛の時代に、天一地五を飛び越えて、現在われわれが使用しているような「天一地四の四つ玉ソロバン」を提唱した人なのである。
  従って純粋にわが国で「四つ玉ソロバン」を論理的に、しかも明確に主張したのは,
乳井 貢が最初であるといえる。

◎「四つ玉ソロバン」を主張の理由 その1
四つ玉ソロバンを主張した理由を推察してみと、当時は「ソロバンの入手」が困難であったことが挙げられる。

@高価であった。
     『ソロバンの価格考』(鈴木久男・数学史研究45号)によれば、現在の名人作の高級ソロバン程度(五万円から十万円)ではなかろうか。一方で鈴木氏は、ソロバンは『塵劫記』などの書籍より何倍も高価であったからこそ大切に取り扱われて、現在まで残っているのであろうとも述べている。(商人中心に普及し、商人にとって暖簾と同じように精神的な拠であったので、大切に扱った。現に私蔵のソロバンの桐箱に「商人魂」と刻したものと、「寶盤」と墨書きしたものがある)
  A生産量が少なかった。
     前述の資料によると、嘉永四(1851)年でも、大津ソロバンの年間販売数が470面にすぎなかったことから推して、一般には入手が困難であった。

【 余 談 】
◎ソロバン伝来の時期を考証する史料として、
   *士   前田利家の「陣中ソロバン」(1592年)
   *農   「たはらかさね耕作絵巻」(1610年頃)
*工   駿府城の「築城図屏風」(1607年)
   *商   川越 喜多院蔵「職人尽絵」(1610年頃)
   *交易  ポルトガル美術館蔵「南蛮屏風」(1600〜1610年頃)
  が挙げられる。このことから、日本に伝来したソロバンは、かつての「九九」の伝来時と同様に、比較的早い時期から士農工商の四民に広く普及していたことがわかる。
   しかし、前述の通りソロバンは、生産数が少なく高価であったことを考え合わせると、購入者は商人が主体で、個人はもちろん、和算家といえどもソロバンの入手は相当困難であったことが想像できる。
そもそも、わが国≪珠算の鼻祖・毛利重能≫が京都二条京極で「天下一割算指南」の看板を掲げたそのとき、重能は何面のソロバンを所持していたのであろうか。
また、一般によく使われる「読み・書き・ソロバン」という言葉は、いつ頃から言われるようになったのだろうか。(この言葉の最初の文献を探している)
江戸の資料によると、ソロバンも教える寺子屋が約7割を占めていたとあるが、本当にどこの寺子屋においてもソロバンの指導が行われていたかどうかは、甚だ疑問である。
何故かといえば、寺子屋入門時に親が揃える必需品は「硯箱・筆・紙・墨・天神机(勉強机のことで寺子の持込み)・盲縞の上着・先輩たちに配る菓子」とあって、机まであるのにそこにはソロバンが入っていない、簡単には手に入らなかったということである。

◎「四つ玉ソロバン」を提唱の理由 その2
   さらに、別の角度から推測を進めることとする。

@数理的観点
  ㋑十進法は、一桁は、0,1,2,3,4,5,6,7,8,9で、10以上は不要である。
  ㋺天二・地五では、二つ以上の表示ができることは、不合理である。
    例 10は3通り、100は5通り、1000は7通りの表示ができる。

A価格的観点
   玉を28.5%減らすと、その分価格が安くなる。
   前述の『価格考』によれば、昭和16年ではあるが、『算盤公定価格表』(商工省告示第833号)に「四つ玉は五分下げ」と出ている。

B用途的観点
  前述ように、乳井は「世間有合のそろばんは、一統俗用のためにこしらへたるもの故、桁に米金銭の名を書付置く故位の見やう致しにくし」といっている。

C材料的観点
  七珠算盤(中国では、天二地五をいう)を五珠算盤(天一地四)にすれば、23桁のソロバンに換算して、七珠算盤5面分(玉805顆)で五珠算盤を7面作成ができる。
   因みに、鈴木氏の『現存そろばん目録』によれば、江戸時代初期〜1700年代の32面の平均桁数は22.3桁(714÷32)である。

D製作期間的観点
   ソロバンの製造で、一番手間がかかったのは「玉」の作成で、玉の減少は製作期間の短縮に繋がる。
中国で1978年、青色20粒・黄色70粒、直径1.5〜3cmの「西周陶丸」が出土しており、「数術記遺」の「珠」は「陶丸」を使ったのではないかと想像する。私は陶器の方が丸い珠が作り易かったのではないかと思っている。

E利便的観点
  玉の減少は、重量の軽減となるとともに、全体にシンプルとなり利便性が図れる。

 以上、『初学算法』を種々の観点から考察してみました。
 乳井 貢が、算学の専門家でなかったからこそ見えた矛盾を指摘したのであって、合理主義者としての乳井 貢の真骨頂であろう。学ぶべきこと多としたい。
(『珠算史研究』第55号所載)
posted by そろまんが at 22:38| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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