2011年06月12日

乳井 貢と『版籌(はんちゅう)』


   乳井 貢と『版籌』


 前号で述べたとおり、「青森地方珠算史」にて、≪乳井 貢≫の『版籌』なるものを知り、青森の佐々木信一先生にお願いして、資料をいただきました。
いただいた『版籌』を読み下してみると、それは、【版籌】という筆記具を使って計算をする方法で、漢数字で縦書きの筆算でした。(以下【版籌】は器具、『版籌』は解説書。)

『版籌』について考察するとともに、その側面からみた「乳井 貢」と和算について考えてみたい。前号と重複するところもあるがご容赦くだ さい。

1.計算用具の【版籌】とはなにか。(前号をご参照ください)
(1)「大きさは自由」とあるが、「懐紙に挟んで持ち歩く」とあるから、二つ折であるので、開くとおそらくB5かA5用紙程度と考える。
(2)全体は、漆塗り(朱・白・黄色)の木製の板で、二枚を蝶番でとめたものである。
(3)漆塗り・抽斗つきの古ソロバンがあるが、これは屋外で使用するとき、抽斗(裏板)を引き出して、計算の結果を矢立の筆でその裏板に記録し、用が済めば雑巾などの濡れ布で拭きとる。これと同じ要領で使用する。明治の頃の学童が使用した「石盤」と同じ用途である。
  「石盤」:粘板岩の薄板に木製の枠をつけて、蝋石などの石筆で文字・絵などを書くようにしたもの。布で拭くと消える。明治期に学童の筆記練習用に使われた。
(4)漆塗りのものを復元できればと思ったが、ラミネートで作製すると水性ペンで書いたあと布で消して使用できる。

2.『版籌』〔天明五(1785)年・乳井 貢著〕の目 次
      版籌用法
      除  法
      乗  法
      累  法
      開 平 法
      開 立 法
    ◎この時代の算書の通例として。加減は省略し除法から始めている。

3.『同文算指』と『暦算全書』の乗・除法
   『版籌』の前に『同文算指』と『暦算全書』の乗除の計算方法について掲げておきたい。 
(1)『同文算指』(マテオ・リッチ口述・李之藻記述・1614年)の乗・除      
  4300678×600394=2582101267132    1623149÷289=5616…125
         四三〇〇六七八         一       
  六〇〇三九四       一一二
        一七二〇二七一二       二五四一
       三八七〇六一〇二        陸七〇六
      一二九〇二〇三四         四弐八八二 
     〇〇〇〇〇〇〇〇          五六参九七
    〇〇〇〇〇〇〇〇          壱八〇七七五五       二八九
   二五八〇四〇六八           壱陸弐参壱肆玖( 五六一六 一二五     
   二五八二一〇一二六七一三二       二八九九九九     
                       二八九八八
                        二八二
                         二

◎乗法は、漢数字を使用しているが現行の計算と同じである。
◎除法は、中世イタリアの「ガレー法」と同じである。末尾の分母・分子はガレー法と上下が逆である。この方法をイギリスでは「抹消法」という。
    *ガレー法は、珠算での計算の「盤面数」を記したものであるが煩雑で、途中で休むと分からなくなったり、誤算も多かったので次第に廃れていったということである。
◎九去・七去検算法がでている。
   ◎余乗法(1桁の掛け算)が出ている。
 ◎『同文算指』は「禁書目録」に含まれている。
(2)『暦算全書』(梅文鼎著・1723)の乗・除
   30058×905=27202490 86680÷88=985
     得
     二 二                  減 得   実 
     七 〇七○ ↓                〇 両
     二 〇〇〇〇一↓ 実            七 九 銭 八 八 〇
     〇 四〇〇〇〇五 三          六七二 八 分 八 六 七〇
     二 七五〇〇〇〇 〇         四六四二 五 厘   六 四四   
     四  二〇〇二〇 〇          四〇四   法 八 四〇  
     九    〇四五 五            〇     〇
     〇      〇 八
九 〇 五法
   ◎乗・除ともに、漢数字を使用し、且つ縦書きである。
   ◎現行と同様に、分子積(九々の答)を全部書いている。3×5=@D
   ◎『同文算指』と同様の、九去・七去検算法が出ている。
 
4.『版籌』における、除・乗法
   つぎに、『版籌』の除・乗法であるが、他の和算書と同様に、除法、乗法の順に述べられている。(前号参照)

5.『版籌』考案の背景
◎社会が、読み書きや計算の能力を必要とした。
   兵農分離の結果、武士・領主層は都市居住となり、領主の村落支配は、上からの触書・法度の伝達、下からの報告・訴状の提出など高度な文書処理能力が必要になった。
  一方では、大量の年貢米の商品化により、全国的な規模での商品流通が盛んになって、計算や測量の能力が必要であった。
 乳井貢は、数学についてつぎのようにいっている。
「人は、生まれて死に至るまで、一日として数を云わざることなし」
「士農工商共に数を学んで、その徳を知るべきことなり」
 ◎ソロバンを学べばよいが、前号の『初学算法』で述べたように入手が困難であった。

6.『版籌』の内容について
 『版籌』で述べられているのは、横書きと縦書きの違いはあるが(暦算全書の影響か)、正に現行の「筆算」そのものである。
乳井 貢の発想について「四つ玉ソロバン」の提唱だけがクローズアップされているが、私はむしろ『版籌』で取り扱っている「筆算」とその前提としての「位取り記数法」を挙げたいと思う。
 日本で最初に現在の「筆算」に相当するものを、ほとんど独自に【版籌】なる用具を考案し、実用に供したのは≪乳井 貢≫であることを、声を大にして訴えたい。
 
7.筆算について 
(1)中国での筆算
当時の中国では、筆算のことを「写算」といった。『算法統宗』(1591年)の巻之十七では『写算』または『鋪地錦』(ここでは、十を一□と表示、□=空白のこと)といって、イギリスのジョン・ネピアが著した「ネピア・ボーン」といわれる「格子掛算」が記されている。
 しかし、『写算』は、ただ単に乗除の計算をして答を求める作業だけであって、インド数字の「位取り記数法」を意識した筆算としては、つぎのような経過をたどってわが国に伝わったのである。
 1583年キリスト教伝道のため中国入りした、マテオ・リッチ(中国名:利瑪竇)は、ローマ学院で学んだ知識の一つ数学を李之藻に教え、二人で『同文算指』(1614)を著した。それらを咀嚼した梅文鼎は1723年『暦算全書』を著した。
 『暦算全書』は時をおかず1726(享保八)年には『数度衍』(方中通・1661)と一緒に、渡来した。
時の将軍吉宗はこの訳述を建部賢弘に命じ、賢弘はこれを高弟中根元圭に託した。賢弘・元圭は1733(享保十八)年その任を果たし奉呈した。
 『版籌』の序に「梅 九定が『暦算全書』に簡法筆算の法あり…」とある。
『暦算全書』24冊の内の19冊目が『筆算』で20冊目は『籌算』であるが、ここで述べられている「籌算」は「ネピア・ボーン」を改良したものである。
(2)和算での筆算とは
大矢真一著(数学史研究 31号)によれば、
「算木で方程式を立てるまでの過程を全部頭の中でやらず、次々の変化を紙の上に書いておくことである。こうすれば立式は容易になる。それを考えたのが関孝和の筆算である。のちにこれは『点竄(てんざん)』と呼ばれた。和算における筆算はこのような道筋でうまれたのであるから、数の計算で行われなかった。それはソロバンや算木を用いられたのである」
(3)現在でいう筆算とは
算数教材研究講座『数と計算』金子書房(昭和34年2月10日) P.149
「暗算における困難点は、その計算の過程で数の記憶を継続せねばならぬことである。この大きい数、複雑な数の計算を必要とする場合、繰り上がり、繰り下がりが、心力を労しないで、容易に、能率的に、不必要な記憶はできるだけさける方法が筆算といわれるもので、視覚的な方法を用いて、複雑な思考過程をできるだけ単純な計算過程に分析して、より能率的に式、記号、計算の法則、記数法等の数理に基づいて演算を行う。これが筆算である。……この筆算形式のよる加法・減法は、それだけにとどまらないで、さらに乗・除からより高次の算法へ、さらに文字の演算に発展し、いわゆる高い数学の演算に関連をもつものである」
(4)筆算優位説
後年ではあるが、『西算速知』(1857・福田理軒著)の「凡例」につぎのように述べられている。
「筆算は、弾珠(尋常の算珠盤なり)或は運籌(籌さんをいふ)等によらず帋上(紙上)に書記し其数を求る術にして、除歌を用ひず九々の声をも知らずとも、加入減去の技より帰因乗除の業、日用堅務の諸法をも時日を費さず一日にして会得し一筆半楮を以て自由に用便する法なればよく熟練の上においてはたとへ幽僻の地域にして紙筆に乏しくとも地上に画して其数を得べし、故に行路の間航海の上軍陣の前或は馬上輿中に在ても器具を用ひず、胸中に其要を得ること他術の及ぶ処にあらず」と筆算の優位性を説いている。

8.『版籌』での「位取り記数法」
 当時の多くの和算家も、ソロバンの布数法が位取り布数法であることから、数の把握にあたって、なんとなく位取り記数法的認識はあったと思われるが、
 @ソロバンも算木も横表示であって、記録する数字は縦表示である。
 A天二地五のソロバンでは、一桁に15まで、算木では一桁枠に限度なく布数できる。
このことが、位取り記数法の確立まで及ばなかったのではないか。
 そのような時代にあって、乳井は
 @縦書きの位取り記数法を採用している。
 A零を{〇}で表示している。(算法統宗では空白である)
 B掛け算の総九九(81個)を使用している。
 C帰除法の全盛時代に、九九を利用した筆算(商除法)を採用している。
 D定位法の重用性を徹底して説いている。

9.位取り記数法とは、
(1)特定の数を表す数字または数詞を定める。
  漢数字の一から九までの9つの数字と、〇(ほし)を使用。
(2)零(0)の概念を理解する。
* 空位を示す記号としての零(0)
* 演算の対象としての零(0)
   数としての0の性質(A+0,A−0,A×0など)
  (3)記数法の理解
    各位格に@でいう数字を割り当てて、同じ数字を繰り返し用いて任意の数を表せることを理解する。
      例  十を一〇    
         三十を三〇   三十三を三三    
百を一〇〇   百五を一〇五
         九百九十九を九九九  千を一〇〇〇
  (4)十進法と位取りの理解
    ある大きさ(十進法では十)に達すれば、一まとめにして位を上げ、上位の一として扱う。
      例  九たす一は、一〇ということ     
         九十九たす一は、一〇〇ということを知る
   
10.零の数学的性質         
  (1)無の0     
    メソポタミアにおいて、シュメールの時代からあった。
  (2)空位の0
    位取り記数法において、空位を表す記号としての0
    古代インド、マヤ文明、古代バビロニアでも使用。
  (3)演算の対象としての0
    7世紀のインド人ブラーマグプタの書物(628年)
    この時点をもって「0の発見」といわれる。
      例  0匹、0箇
  (4)基準としての0
    正負の境としての0
      例  0℃  数直線でのO(オー)
 *零は、現在でもこれらの側面を包含して使用されている。

11.『初学算法』(安永十:1781年)における、乳井 貢の主張
乳井の主張は、往々にして「五つ玉」から「四つ玉」にすることと錯覚しがちであるが、中国流でいえば、「七珠ソロバン」から「五珠ソロバン」に改革することを提唱したのである。このことは、当時としては思いもよらない画期的なことであって、世間には受け入れられなかったと思われる。そして、普及しなかった理由としては、
@乳井の考えがあまりにも画期的であったこと。
A乳井が津軽在住であったこと。(移入より、移出面で)
Bかてて加えて、乳井が専門の算家でなかったことがあげられると思う。
 ご承知のように、小学校で「四つ玉ソロバン」が採用されたのは、160年後の昭和13年の『尋常小学算術』第四学年児童用下(緑表紙)からであり、一般に普及したのは、それからまだ10年後のことである。それと呼応したかのように算法も、割算が「帰除法から商除法」に、その後定位法の関係もあって「頭乗法から新頭乗法」に移行した。
 大阪では、森友 建先生(前日珠連理事長・大珠協会長)を中心にした委員の方々が「外国人指導」を実施しており大変な功績をあげているが、もし現在でも「四つ玉ソロバン」と「商除法」でなければ、合理主義の欧米人には決してすんなりとは受け入れなかったであろう。また、現在の「暗算の普及」もなかったと考える。
 博学の人であり、経世家あった≪乳井 貢≫の、その優れた洞察力は二百年後を予見していたのであろうか。

12.乳井 貢の評価
(1)博学の人であった。
   『版籌』の序文に「河図・洛書」のことに触れており、「太初の聖人は教を数に始めて河図を示す、次いで洛書を教ゆ、幼童の時より数を教えしとは礼経に見えたり、孔子 易に曰く 一、二、三、……八、九、十 是を合わして五十五変化を成して鬼神を行(や)る所以なりとのたまえり」とあって、『初学算法』にも同様の言葉がある。
   他の著作からも推して、和・漢・竺の書に精通していたらしく、『四書・五経』『礼経』『易経』なども渉猟していたのではないかと思う。
   梅文鼎の『暦算全書』(1723年)は、1726年長崎に渡来、中根元圭が訳して、建部賢弘が時の将軍吉宗に奉呈したのが1733年である。
   それから50年ほどの間に入手し、理解していたのである。もっとも、乳井が特に好んで傾注したものに「易学」があることから、ぬべなるかなとうなずけるところである。
(2)算学に精通し計算に堪能であった。
  @版籌での数の取り扱い方をみると数論に精通していたことが強く感じられる。一部地域での「亀井算」を除いて、帰除法全盛の時代に九九の「六五三十」と割声の「六五八十二」とをとり違えるおそれがあると述べている。
  A開平・開立については、他の算書と異なる解説である。
  B定位法の大切さを力説し、徹底して説明している。
(3)参考にしたであろう算書
  @暦算全書、割算書、塵劫記、数学端記をはじめ亀井算も知っていたのではなか。 
A方円秘見集(多賀屋経貞著 1660年)
    「勘定に十の心得」   
    一 心をしずめること
    二 実法を思案のこと
    三 かけた方がよいか、わった方がよいかを考えること
    四 算を静に行なうこと
    五 わりおさめを覚え考えること
    六 かけ割言葉づかいに心をつけること
    七 桁違いをせぬこと
    八 わり算はかけて、かけ算はわって検算をすべきこと
    九 はじめにおくときも、わりおさめた後もとび桁に注意すること
    十 読み違い、書き違いのないように心づけること
  B因帰算歌(今村知商著 1640年)
   「かけさんは 一桁九因長桁は 因乗なれば よせのせそする」
   「かけさんは よせのせそする算なれは みしかきかたを よせのせもする」 
   (乳井・初学算法)「乗にはどちらを法にしてもよし、法は左実は右に置なり、
右を実と云、左を法と云、法は桁数の少なきを用ゆべし」
  C算法勿憚改(村瀬義益著 1673年)
   「九九は是 掛算なれば長短の みぢかき桁を法に用いよ」
   「八算のこえをわすれし其のときは くくにてさがし出すべき也」(商除法)
   「見一のおかれぬときは 作九一 過(すぎ)は一進 たらずは倍一」
  D数道初術前集(東房軒著=田中佳政の門人 1703年) 
   『修行の大意十か条』―6―
   「数の道は学ばずともよいかの問いに対し、怒って曰く、上古君臣の差別もなく、文字の無いときはそれで良かったであろうが、五倫の道、礼儀の法、文字が作られてから諸道も興ったのであって、人とうまれて飢寒からず渡世ができる。尊きと卑しきとの違いこそあれ、それぞれの数学があるので学ばねばならぬ」
『初学算法』『夫数は士の算有り 農人の算有り 職人の数有り 町人の数有り」
(版籌)「夫数は学ばずんばあるべからず、人生まれて死に至るまで一日として数を云わざることなし、上は天子の尊きより、下は庶民の卑しきまで時々数の用なきこと能ず」 
(4)思考が合理的であった。
  @命位を覚えなさい。
   ただし、大は「兆」まで、小は「沙」まででよい。それ以上知りたければ、諸書を見て自分で調べなさい。(現在でも、これで十分である)
A九九は暗誦しなさい。
   一位と十位の二桁だけである。
  Bかけ算の法は、桁数の少ない方を置きなさい。
  C位取り(定位法)が大切である。
   盤面だけ合っても、位取りを知らなければ欠けた計算である。
  D数字も考案している。『版籌』の最後に暗瑪と思われるものを掲載している。

13.【版籌】が普及しなかった理由
  @乳井 貢が和算家ではなかった。
  A弟子が算学の継承者にならなかった。
  B弟子たちに基礎的な数の素養がなかった。
  Cソロバンが普及する以前に考案されておれば、可能性はあった。
   ソロバンでは、割声により、特段の思考を要せず機械的にできた。
  D一般には、位取り記数法のしくみの理解が困難であった。
  E必要度が低かった。
  Fとっつきにくかった。
   憶える。考える。習得までが苦痛であったと思う。
   明治5年の学制頒布後も、「洋算」移行が困難で、珠算の併用を認めたことからも容易に想像できる。

14.『版 籌』について
薮内 清著『中国の数学』に「『暦算全書』と日本の和算との比較で興味があるのは、『幾何補編』にみえる《大円容小円法》である。」とあって、一方で「もちろん時代的にみて、和算がこの種の問題で梅 文鼎の影響を受けたことはないであろう」とある。
しかし、 乳井 貢の『版籌』は『暦算全書』の影響があったと思われる。
それは、つぎの序文の「『暦算全書』の著者を梅九定」といっていることと、「珠盤」をそろばんと呼んでいる(『初学算法』では「そろばん」といっている)ことである。

15.観中算要〔文化十四(1817)年・乳井徳弥建徳・貢の子孫によって出されたものであろう(佐々木信一先生)〕については、『観中算要』を平易にしたのが『初学算法』であるということなので、目次のみ掲げることにします。
目 次
      定 位、本 位、
配 位、
乗除位の法、
平 方、
立 方、
差 分、衰分、
損 得、盈 虚、
度 量

 このように、乳井 貢は生涯を通して庶民の生活向上のため、自己研鑽に裏打ちされた豊富な見識による常に新しい発想の実現に尽力したのである。しかし、革新にはこれまた恒常的に反対勢力が存在して抵抗してくるものである。そのたび重なる謫により二度にわたって失脚するも、復活してその生涯を全うされたのである。
 その優れた「進取の気性」と種々の困難に立ち向かう「精神力」には、いよいよ感嘆景仰するところであります。
                              (「珠算史研究」第56号所載)

posted by そろまんが at 16:28| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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