2012年01月02日

伝来の頃の古ソロバン

「伝来の頃の古ソロバン」

1.「大垣 田中家の古製算盤」           

 「埋もれていた古ソロバン」がその姿を現した。

 日珠連「珠算史専門委員会報告(1)」(昭和33年4月)によれば、古いソロバンそのものの製作年代や、その履歴を調査して考証せられた先駆者は≪遠藤利貞≫だそうである。
 その著『机前玉屑』(きぜんぎょくせつ)に「岐阜県下美濃大垣町字廓町、田中巳之助寄贈に係る十三桁、背梁無字、梁上一珠、梁下五珠、珠形矯立円(通俗之ヲ橙子形ト云フ)、製造粗、破損甚し、僅に七軸(現状6桁)を存するのみ、支那の製作に非ず、寛永11年(1634)以前の作と判定される。明治43年(1910)調査」などと記述されている。
 これについて、『東西算盤文献集・第二輯』(山崎與右衛門編・昭和37年3月25日・森北出版)に、遠藤佐々喜の論文『算盤来歴考補遺』(原文:慶應大学文学部・三田史学会発行【史学】・昭和11年7月)が別掲の≪遠藤利貞の由来文≫とともに掲載されている。
 遠藤佐々喜によれば、この算盤の写真を昭和6年10月11日、高井計之助からもらったということである。

遠藤利貞(えんどうとしさだ、1843〜1915)は、1875年東京師範学校教師、官版珠算書・第1号を刊行。1906年帝国(現日本)学士院に勤め、和算書などの蒐集、調査・研究を行い、『大日本数学史』などを著した。
高井計之助(たかいかずのすけ、1875〜1934)は、珠算を堀 梅吉の指導を受け、上京し日本法律学校(日本大学の前身)を卒業後、1905年商科設置と共に講師となる。
 和算史研究の嚆矢であり、多数の稀覯本などの蔵書家としても知られ、没後散逸した一部は「米議会図書館」「東京天文台」に現存するという。山崎與右衛門・安部元章他の恩師である。
遠藤佐々喜(えんどうささき、1876〜1946)は、史学家。明治40年三井家編纂室(現三井文庫)、三井家同族会事務局、三井合名会社勤務。その論文は文献学的といわれる。特に古算盤の研究については他の追従を許さないといわれた。慶長・元和の頃を下るまいと鑑定した30〜40面の古算盤と古書籍は戦災に遭い焼失して現存しない。

 由来書に「毛利重能・吉田光由の名が見える」ことや、委員会報告の「古そろばんに関する研究を遠藤佐々喜・高井計之助以外に知らない」もあり、その遠藤佐々喜も「その年代の推定は同意できる」とあるので、寛永11(1634)年以前ということで間違いないと思う。従って、このソロバンは、現存する古ソロバンの中でも極めて初期の一面であると認めてよいと思う。

 話は変わって、京都に「ニューイクゼン」(日珠連会員・当誌に広告掲載)の社主:久下五十鈴という方がおられて、数年来親交いただいている。
 久下氏は、全珠連の「育全」の後、その業務全般を引き継いで現在も経営しておられる。店舗の2階には、驚くほど沢山のソロバンや種々の文書などが、山積みと表現しても過  
言ではないほど展示されている。
 その久下氏は十年以上に亘って『割算書』・『塵劫記』、特に『塵劫記』(1627年)の著者≪吉田光由≫に興味をひかれて、光由の墓所を探し当て、吉田家・角倉家を訪ねて家系図を閲覧したり、墓所である「二尊院」(常寂光寺の隣)の過去帳に光由の戒名「顯機圓哲信士」を確認された。なにより私が感動するのは、毎月欠かさず数回は、光由と吉田・角倉家の墓所の清掃に勤めておられることである。
 昭和52年10月10日、塵劫記刊行350年を記念して、日珠連・全珠連・日本数学史学会の共催で常寂光寺に「塵劫記記念碑」を建立したが、その30周年法要を平成19年10月21日に、また平成22年11月20日には、「吉田光由に感謝する会」を自費で営まれたのであります。
 その間、かねてからの氏の夢であった、「そろばん館」という「商標登録」を平成19年11月16日取得され、その願望を達成されました。
 久下氏のつぎの目標は、「光由の使用したソロバンが残存するのではないか?」とその探索でした。
 前述の「家系図」や話の中に、「(光由の?)五番目の息子である、儀兵衛は母方の田中家の云々…」という記載があったこと、吉田家第十七代当主、吉田弘氏の「曽祖父の方は田中姓であったらしい?」という言葉などから、「田中」という姓のつくソロバンについて、書籍などを繙いて調べられました。
 その結果ようやく『東西算盤文献集』の「大垣田中家旧蔵品」に辿りつき、その算盤が日本学士院に収蔵されていることをつきとめられたのであります。
 早速、日本学士院に依頼して入手したのが、掲載の写真です。

 このソロバンについては、遠藤利貞、高井計之助、遠藤佐々喜の三氏の外には、
写真については、二冊あって、どちらも暁出版発行で、『日本のそろばん』(山崎與右衛門・竹内乙彦・鈴木久男共著、1968年9月20日)と『算顆随想 続』(山崎與右衛門著、昭和52年5月29日、「日本学士院の古算盤」)である。
説明文としては、
鈴木久男著『珠算の歴史』(初版:昭和39年・富士短大・P.175、増補改訂版:平成12年・珠算史研究学会・P.192)で、「大垣 田中家旧蔵学士院蔵 五珠1 13桁(遠藤利貞発見) 寛永十一年(1634)以前の作(遠藤利貞による)」と、同じく鈴木久男著『古そろばんの研究』(昭和48年8月13日)ではP.130とP.364の各一行のみ触れておられる。
『日本のそろばん』では、 P.57【寛永以前のそろばん】 【写真】とともに、
「大垣の田中家に伝わっていたもので、遠藤利貞氏の自筆稿本≪古珠盤考並本器之由来≫(明治43年:1910)で寛永11年(1634)以前の製作にかかるものと論究されたそろばん。
田中家の祖先田中与惣次は谷幽斎の門弟で達算者であったといわれる。
田中家は宝永3年8月28日に大垣領瀬川村に移住し土地を開いて、名主となった旧家で、当時の当代の巳之助氏はその10代目。」とあります。
 『算顆随想 続』(山崎與右衛門著、昭和52年5月29日、P.77「日本学士院の古算盤」)
【写真】  長さ37.3p 天地 中央14.7,右端15.4p,左端15.1p
  「この写真は私が21歳のとき(T6〜7:1917〜8)、友人の報せで日本学士院にあることを知り、神田淡路町の江本写真館の御主人と共に撮影に行った古い記憶がある。
  偶、数十年見かけなかったこの写真がこの頃見出されたので、いまどうなって居るであろうかとの好奇心から、去る(S51年)八月一日、炎天の中を日本学士院に赴き、受付の娘さんに持参した古い写真を示したところ、直ぐに保管場所から現品を出してきて私の座席の前に置かれた。
  箱の中にある古算盤は六十年近くを経過しても少しも変っていないのが印象的で、私はひとりで微笑(えみ)をもらした。
  この古算盤の桁数が十三桁なので、古い中国算盤十三桁のものと比較してみた。
  全体の長さ、幅に変りがないが、(中国製と)比較して構造や珠の形態が全然違って居る。日本で算盤が製造されるようになって間もなく作られたものと想像されるが、日本的性格を充分に帯びている。
  古算盤に残された十九個のうちやゝ大きいのが、この算盤に始めからあったもので、九個か十個である。その他の珠は他の算盤珠を補充したのではあるまいか。珠は轆轤(ろくろ)で作られたと思うが、初期の算盤珠には一個ずつ鑿(のみ)で作られたのもある。」

 今回、久下五十鈴氏の執念ともいえる尽力と、日本学士院の井上司氏の協力を得て、この算盤が今、日の目を見たということは、珠算界・珠算史研究者にとって朗報であり、ソロバン自体も浮かばれ、遠藤利貞・高井計之助・遠藤佐々喜両の先生方もお喜びと思い「日本珠算」に掲載を依頼した次第です。
 今のところわかっているのは、
      天1地5、13桁(6桁・珠19顆残存)、縦155mm×横375mm×高さ31mm、
梁の幅30mm、桁ヒゴの太さ4.1mm〜4.3mm、釘づけ    
のみで、「吉田光由との関係」は吉田家現当主も調査するということで未詳です。
また、材質その他の考証は遠藤利貞の言「有識諸君ノ考断ヲ待ツ者ナリ」ということですが、わかりましたら報告いたします。


追 記
1444年の銘のある「文安算盤」(三重県伊勢市 吉見家収蔵)についても、久下氏のお世話で11月26日(土)、新しい動きがありました。それについては後刻報告いたします。

「日本珠算」24年1月号所収


 『東西算盤文献集』 第二輯より

   「 算 盤 来 歴 考 補 遺 」          遠 藤 佐 々 喜  

五 古い算盤遺存品の比較 
 三 大垣田中家旧蔵、帝国(現 日本)学士院襲蔵の古算盤
 右の実物写真の複写一葉を、予は、故高井(計之助)氏から、昭和六年十月十一日に恵与せられたものを珍蔵してゐるが、茲には省く。
此そろばんは破損甚だしいが、古拙な作で、桁数十二行、梁上一珠のものであるが、珠形は前田家遺品に酷似して居り、全貌一見して寛永時代の遺物たることが、鑑賞される。この古算盤は日本数学史の著者遠藤利貞氏が明治四十三年に発見されたものである。同(遠藤利貞)氏の自筆に成る本器の由来書を写せば、

   『古珠盤考並本器之由来』
此古珠盤ハ明治四十三年十月 帝国学士院ノ命ヲ受ケ、和算史編纂材料蒐集ノ為メ岐阜県下美濃大垣町ニ到リシ時、同町字廓町ノ住 田中巳(己)之介ノ寄贈ニ係レル者ナリ。蓋シ同氏ノ祖父ハ谷幽斎ノ門弟ニシテ田中与惣次ト曰フ達算者トゾ聞ヘタリ、此家元ト同国多喜郡(現今養老郡)京脇村ニ在リテ富豪ト号ス、宝永三年(今年ニ先ツコト二百四年)八月二十八日大垣領(戸田伯領地)久瀬川村(現今大垣町)ニ移住シ大ニ土地ヲ開キ、同村ノ名主ト為ル(現戸主ヨリ十代前ト云フ)、与惣次氏ハ数代後(八代ノ後ナラン)ノ戸主ナリ、大垣藩士小原鉄心ノ知遇ヲ受ケタルモノト聞ケリ。此古算盤ハ与惣次ノ在世中常ニ使用シタルモノナリ(巳之助ノ祖母ノ言ニ依ル)、今本器ヲ視ルニ位十三桁、脊梁無字、梁上一珠、下梁五珠ニシテ珠形な矯立円(通俗之ヲ橙子形ト云フ)ヲ成スモ、製造粗ニシテ帯アルニ似タリ、破損甚クシテ僅ニ七軸ヲ存スルノミ、加之珠軸摩殺シ、珠モ亦多数ヲ落脱ス、其全体古色蒼然トシテ掬スベシ、熟ヲ古図ニ就テ之ヲ考フルニ、此器支那ノ製作ニ非ズ、毛利重能ガ明ヨリ模ラシ来リタル汝思甫ノ珠盤ヲ模シ、大津ノ工匠ニ命ジテ作ラシメタルモノト同種ナラン。如何ニ之ヲ近シト見ルモ寛永十一年以前ニ在ルコト疑フベクモ無シ。果シテ然ラバ、此器ハ今年ニ先ツコト実ニ二百七八十年以上ノ者トス。憶フニ田中ハ旧家ナリ、其祖先ガ重能光由等当時ノ珠盤ヲ買求テ之ヲ世ニ伝来使用シタルモノナルモ、
惜哉往時ノ弊トシテ之ヲ貴重セズ、粗末不慎ニシテ斯クハ大破ニ及ビシナラン。
生ガ考フル所斯ノ如シ、尚ホ有識諸君ノ考断ヲ待ツ者ナリト云爾。
                 帝国学士院嘱託員
                    後  学     遠藤利貞識   ㊞
   明治四十三年十二月

 右の内、古珠盤に関する学説の部分は、今日に於ては学者に異論をさしはさむ人もあらうが、日本品にしても支那式の味豊かなものである。而してその年代の推定は大体に於て
同意者も多からうと思ふ。
 以上、前田家、片岡家、田中家の三品を以て、私は凡そ十六世紀頃の「支那式日本そろばん」の遺品の一系統と仮想する。

『算顆随想 続』山崎與右衛門著 S52.5.29 暁出版(珠算界 S51.9)

P.77
 「日本学士院の古算盤」 
【写真】  長さ37.3p 天地 中央14.7,右端15.4p,左端15.1p
  この写真は私が21歳のとき(T6〜7:1917〜8)、友人の報せで日本学士院にあることを知り、神田淡路町の江本写真館の御主人と共に撮影に行った古い記憶がある。
  偶、数十年見かけなかったこの写真がこの頃見出すされたので、いまどうなって居るであろうかとの好奇心から、去る(S51年)八月一日、炎天の中を日本学士院に赴き、受付の娘さんに持参した古い写真を示したところ、直ぐに保管場所から現品を出してきて私の座席の前に置かれた。
  箱の中にある古算盤は六十年近くを経過しても少しも変っていないのが印象的で、私はひとりで微笑(えみ)をもらした。
  この古算盤の桁数が十三桁なので、古い中国算盤十三桁のものと比較してみた。
  全体の長さ、幅に変りがないが、(中国製と)比較して構造や珠の形態が全然違って居る。日本で算盤が製造されるようになって間もなく作られたものと想像されるが、日本的性格を充分に帯びている。
  古算盤に残された十九個のうちやゝ大きいのが、この算盤に始めからあったもので、九個か十個である。その他の珠は他の算盤珠を補充したのではあるまいか。珠は轆轤(ろくろ)で作られたと思うが、初期の算盤珠には一個ずつ鑿(のみ)で作られたのもある。

  遠 藤 利 貞  えんどう・としさだ   1843.1.15〜1915.4.20

 旧姓 堀尾、号は春江、春峰、幼名は多喜之助、堀尾家は、浜松・松江城主の家系。
 堀尾家に入ってから、父より算術を、また江戸藩校立教館で学んだ。
 和田寧の高弟 細井若狭より天元・点竄、円理を修めた。
 明治維新の戦乱に際し桑名藩に属した。敗戦後、藩校(立教館:吉野丸学校)の数学教師(和算)となり時勢を判断、洋学を学ぶべく明治5年上京、数学塾(苟新館)に入る。
 後には宮崎学校、東京府師範学校分校、東京府代二中学校等多くの学校の数学教師を勤めた。
 この頃「東京数学会社」の結成にも参加、和算史の編集を立志し、和算の系統とその内容の探求のため原本の筆写に多大の時日を費した。
 『大日本数学史』は明治11(1878)年に着手、16か年の長年月を明治26(1893)年5月に上・中の2巻を、6月に下巻を脱稿した。同月 日本教育会においてその要旨を発表、同会誌第100号に登載した。出版する書肆がなく、辻新次、菊池大麓の助力を得て、三井八郎右衛門の出費にによって刊行できたのは、明治29(1896)年11月のことであった。全篇3巻、一頁15行、一行30字、445頁である。和算史上特筆すべき大業績である。
 翌年より、遠藤は理科大学等の命によって全国各地に出張、研究調査を継続した。
 明治39(1906)年からは、帝国学士院において和算書の蒐集・調査にあたった。
大正4(1915)年4月20日病没した。この時「勲六等瑞宝章」を叙賜された。
この間、増修版原稿を友人・門弟の岡本則録・岡田武松・中村清二にたくして出版を委嘱した。
遠藤の没後、三上義夫が遺稿の整理に努力、大正7(1918)年『増修日本数学史』を出刊した。今日ではさらに平山 諦の努力で増補改訂され、昭和35(1960)年版が刊行頒布されている。 (本田益夫著『筑前高見神社算額と和算史概略』昭和61年6月1日より)
posted by そろまんが at 18:06| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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