2009年10月21日

ソロバンの形体の推移と付加的効果

ソロバンの形体の推移と付加的効果
                   大阪府 村 上 浩 一
はじめに
 かけ算の九九は、中国で敦煌や居延で出土した頃から、わが国に伝わってからの『口遊』『拾芥抄』までも、九の段すなわち「九九八十一」から始まっている。
 これについて『和算以前』(大矢真一著)では、「計算を行うのは特権階級であって、九九(の成り立ち)を一般人に知らせないために、わざとむつかしい方から唱えさせたと考えられる」とあります。
 ソロバンが誕生した頃、このように普段の社会生活で数になじみのなかった時代に、計算に当って数の成り立ちを理解することが、相当困難であったことが想像できるのである。

1.
 「珠算」という言葉が出ている最も古い文献は、中国漢末(2世紀ごろ)の徐岳が撰し、北周【6世紀ごろ】の甄鸞(ケンラン・シンラン)が註釈を加えた
『数術記遺』であるといわれる。
 この書には、「積算(等)、太乙(一)、両儀、三才、五行、八卦、九宮、運算、了知、成数、把頭、亀算、珠算、計数(算)」の十四の計算方法があげられていて、ここに記されている算器は、すべて十進数(0から9までの数)を表示できるようになっている。
十三番目に記されている珠算は、甄鸞の注釈から想像すると、天一地四(五珠一顆・一珠四顆で、一桁に0〜9まで表示できる)のソロバンであって、使っていない珠を「游珠」といっていることから通称「游珠算盤」ともいわれている。

2.
 宋(960〜1127)から元(1271〜1368)時代になると、商業がおおいに盛んになって、
1斤=16両とする斤両法の計算が必要になった。
 『中国数学史』〔銭宝j編 1990.2.28 みすず書房〕等によれば、古代中国の度量衡は、周尺の名称があったことからみても、周の時代(前1122頃〜前770)に発生したものと思われるが、各単位の進位法はかなり乱れていた。それを統一して法制化したのは秦(前221〜前206)の始皇帝である。
 しかし、成文化したのはさらにおくれて、≪漢書≫【後82年頃成立】『律暦志の条』にあるのが最初であるという。
 『律暦志』の記すところによれば、
     度: 1引=10丈=100尺=1000寸=10000分
     量: 1斛=10斗=100升=1000合=2000龠(ヤク)
     衡: 1石= 4鈞=120斤、  1斤=16両、1両=24銖 
 後世、度の“分”の下にさらに、
        1分=10釐=100毫=1000絲=10000忽
    量の“合”の下に、
        一合=10抄=100撮=1000圭=6000粟
    衡の“銖”の下に、二単位
        1銖=10累=100黍(ショ・キビ)
が増設された。
これらの増設単位は実際のところ、十進小数の概念から発生したものである。
  
3.
一方ソロバンの形体の推移をみると、つぎの通りである。
【中 国】 算木(籌・策・算子) ⇒ 天一地四(数術記遺の珠算) ⇒
 天二地五(天一地もあったらしい)⇒【日本に伝来】
【日 本】 天二地五 ⇒ 天一地五 ⇒ (現在の)天一地四
 1978年、青色20粒、黄色70粒、直径1.5〜3pの「西周陶丸」が出土しているので、数術記遺の計算用具は、すべて陶丸を使ったのではないかと思う。陶器の方が丸い珠が作り易かったのではないか。
 ではなぜ、製作が比較的容易である「算木」から、「珠」が作りにくいと思われる、ソロバンに移っていったかである。
 それは、携帯に便利であるとともに、度量衡の1斤=16両という進位法が、すでに商取引でさかんに使われて15(16ー1)にこだわったからであろう。
 このことは、『算学啓蒙』(1299年)の出題問題をみても明らかである。
 なお、1斤が16両というのは、四季【春夏秋冬】の4と四方(東西南北)の4とをかけあわせた数をあらわしているという。(薮内 清著『漢書・律暦志』)

4.
 このように実用の16進数に適応するため、一桁に0〜15の数を表示することが不可欠となり、その必要から≪天二地五のソロバン」が生まれたのであろう。
 ところが、ここにこの「天二地五」の形体になったことにより、さらに利点が生まれたのである。
 それは、たとえば、
     2 を布数すれば 10 に対する補数 8と、5 の補数 3 が、
     8 を布数すれば 10 の補数である 2 が、
直感的に把握されて、計算機能に教具としての性能が加わり、一般の人達にとって都合の良い初歩の数教育を兼ね備えた計算器具になった。


5.
 しかし、中国でも、
 『古今算学宝鑑』(1524年)
     作五訣、成十訣、破五訣、破十訣はソロバンの口訣のみ記載。
 『盤珠算法』(1573年)
     隷首上訣【123456789の累加】
     退法要訣【1111111101=地五であるので十十十十十十十十一から123456789の累減】
         (十=10、一=1のことである)
 『算学通軌』(1578年)
     九九上法語【加算の歌訣】、九九退法語【減算の歌訣】
 『算法統宗』(1592年)
     九九八十一【上法:加算】
などによれば、普通の加減算の説明では頂珠〔天二の上側の珠〕を使用したという例は、見受けられない。
 もっとも、時に応じて頂珠を利用しても差し支えないのであって、算書の中には、乗・除算の説明の中で、『盤珠算法』金蝉脱穀法の問題、『算法指南』(1604年)などに、五珠2顆の使用例が見えるとのことである。
    
6.
 度量衡は、しだいに十進法に改められていったが、1斤=16両は依然として旧時代の進位法を保留していて、計算は大変煩瑣であったことが容易に想像できる。
 そこで、この計算を簡略にするために、楊輝『日用算法』(1262年)は、1両の価格から1斤の価格を求める【1÷16の】歌訣〔初見〕を作っている。
 また、朱世傑『算学啓蒙』も、つぎの“斤下留法”の十五句を叙述している。
 ≪斤下留法(キンカリュウホウ)≫
    一退(タイ)六二五            二留(リュウ)一二五
    三留一八七五               四留二五
    五留三一二五               六留三七五
    七留四三七五               八留単五
    九留五六二五               十留六二五
    十一留六八七五              十二留七五
    十三留八一二五              十四留八七五
    十五留九三七五         
 この歌訣は、日本でも『算用記』(16世紀末・龍谷大学蔵)では「たうめ(唐目)十六わり」、『割算書』(1622年)では、「小一斤」といい、その後の多くの和算書では「タバコ算」ともいわれるように、主にタバコの取引に使用されてきた。

7.
 ここで、日本の「五つ玉ソロバン」と「四つ玉ソロバン」について、補数という観点から考察してみると、
◎ 五つ玉ソロバン(天一地五、天二地五)は、「1桁の補数」の認識に適しており。
◎ 四つ玉ソロバンは、「2桁以上の補数」の読み取りに適している。
のは言うまでもない。
  石川新次先生が、『帰除便蒙』(1941年)で、「珠算は、補数にはじまり、補数におわる。補数は、珠算のABCたるとともにXYZである。1を置くことからして、この補数の観念をはなれては、なし得ない。」と、珠算学習にとって補数の理解は大切な要素であることを述べている。

 余談であるが、このXYZの研究から、珠算独特の多くの特別算法〔補数加・減算、簡便算、過大数乗・除算、裏面数乗・除算、開平、開立など〕が発展し、普及していったのである。
 しかし、現在の検定試験合格が至上という珠算界の風潮では、作問規定などにより、特別算法の使用頻度が低くなって、珠算独特のこの大切なものの次代への伝承が危ぶまれることを私は危惧する。
 『どのような文化であっても、その独特の技術や精神が正しく伝承されてこそ、未来に引き継ぐ正しい伝統が生まれるからである。』

8.
 次に、外国のソロバンも含めて、1桁の玉数から検証してみると。
 「ローマのソロバン」は、1桁に0〜9まで、
 「中国ソロバン」は、  1桁に0〜15まで、
と、進位数より「1」少ない数まで表示することができるように作られている。
 しかし、「ロシアのソロバン」と「日本の五つ玉ソロバン」は、十進法適応でありながら、1桁に0〜10まで表示できるため、十を表す方法としては、2通りあるのである。〔百は3通り、千は4通り……の表し方がある。〕
 この観点から、
 日本の「五つ玉ソロバンは、中国ソロバン(天二地五)から、四つ玉ソロバンへの単なる通過点」と見てもよいのではなかろうか。

9.
 また余談になるが、1781年、津軽藩(青森地方)の乳井 貢が『初学算法』を著し、その中で天二地五の矛盾点を突いて、「四つ玉ソロバン」を提唱している。天二地五のソロバンが広く普及していた時代に、天一地四の「四つ玉ソロバン」を主張しているのである。
 さらに、乳井は「版籌」なるものを考案し、その解説書『版籌』(1784年)を著した。そこには、おそらく日本で最初の「筆算的計算方法(中国の『暦算全書』のように、縦書きで漢数字を使用した)」を叙述している。
 しかし、これらの説や『版籌』が普及しなかったのは、乳井 貢が津軽藩の勘定奉行などの重責を担う経世家で博学の士ではあったが、専門的な和算家ではなかったことが一番の理由と私はみている。
 いずれにしても、二百年も前に、当時としてはこの様な奇想天外ともいえる考え方の人が居たことに驚きを感じるのである。
 乳井 貢については、別稿にまとめたいと思っている。

10.
 わが国では、伝来してより江戸時代を通して「天二地五」のソロバンが主流であったが、明治になってようやく「天一地五」のいわゆる「五つ玉ソロバン」が主流を奪った。
 しかし、天一地五への移行が、たとえ「通過点」であったとしても、前述のように補数の把握の容易さという付加的効果が、引き続いて庶民や子どもたちのソロバン導入の助けになったことで、大いにその役割を果たしたのである。
 このように、江戸期におけるソロバンの普及は、明治期になって「横書き(左から右へ)の数字の記数法と西洋数学の理解」を容易にし、文明開化の促進に大いに貢献したことは、大方の首肯するところであろう。
 延いては、珠算とそれによって培われた数感覚が、今日の経済発展にもつながったのである。

11.
 昭和13年、文部省は『尋常小学算術』第四学年児童用下(いわゆる「緑表紙」)で数表示がインド・アラビア記数法と一致することを最大の理由として「四つ玉ソロバン」を推奨した。
 当時の学校教育では、一年生で算数の基本として、筆算指導で十進数の構成を学習していて、四年生になって学習する珠算指導では、一珠5顆の存在する意義が消滅していった。
 一方、珠算の塾・教室においても、「加減法」の研究がなされて指導法が確立することにより、しだいに、「四つ玉ソロバン」に移行されていった。
 それと呼応したかのように、相前後して算法の面でも、割算が「帰除法」から「商除法」へ先祖返りの大転換を図った。
 その後、定位法の関係もあって、掛算も「頭乗法」から「新頭乗法」に移行して、ともに社会に受け入れられて普及し、現在に至っているのである。
 この「四つ玉への移行と商除法の採用」とが、今日の珠算の発展と、特に「暗算の普及につながった」ということができる。

おわりに
 もし、『数術記遺』を著した《徐岳》や《甄鸞》が生きていて、ソロバンが「中国で、“四つ玉”として生まれ、約二千年の時を経て、日本という地で、もとの“四つ玉”に回帰した」こと、そして「日本を含めた、アジアの人々の数学と、社会生活や経済活動に与えた影響の大きさ」を知ったとしたら、どのような感慨を持ったことであろうか。

≪ 追 記 ≫
 先年、戸谷清一先生におたずねしたいことがあって、初めてお手紙をさしあげましたところ、お身体がご不調の中にもかかわらず、ご親切に種々ご指導くださいました。
 その折に、いただいたヒントから、まとめてみましたので、誠に不勉強で汗顔のいたりですが投稿させていただきました。
 戸谷清一先生に誌上ではありますが、あらためてお礼申し上げます。

「珠算史研究」第54号(平成21年6月30日)所載 
posted by そろまんが at 14:47| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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