2010年03月04日

珠算と暗算

珠算式暗算の一考察
村 上 耕 一

1.数字の発生
  「人類の歴史の大半を通じて,計算はほとんど必要ではなかった」と『コンピュータを創った天才たち』で著者ジョエル・シャーキンがいう.
  原始生活において,その活動範囲が広がり,生活の事象を記憶のみに頼ることができなくなって,記録を必要とするようになった.そこで生まれたのが文字であり,数字である.
  人類が誕生して180万年とも言われるが,人類が文字を持ってからせいぜい5000年程度(シュメール文字:前3300年,エジプト象形文字:前2500年)である.
  文明の発達に応じてようやく計算が必要となり,その計算が複雑化してくることによって,計算の補助手段としてソロバンの原型が誕生することになった.

2.「珠算」の誕生
  「『算盤』(αβακιον)という言葉が始めて文献に現れるのは,恐らくLysias(Bc.458~378)の著作においてであろう.≪吉田 隆≫」ということである.
  一方,中国において,「珠算」という語が出ている最初の文献は,漢末(2世紀ごろ)の徐岳が撰し,北周(6世紀ごろ)の甄鸞(ケンラン)が註釈を加えた『数術記遺』であるといわれる.
  この書には,十四の計算方法があげられていて,十三番目に「珠算」が記されている.
甄鸞の註釈から想像すると「全体は箱型で,横に三つに区切り,上段は五珠・下段は一珠の未使用珠の待機場所である.五珠と一珠とは色分けしてあり,中段は縦に何桁かに区切ってあって,1桁に9(五珠1つと一珠4つ)までの珠を入れて計算する場所である.待機している珠を「游珠」といっているところから,このソロバンを通称「游珠算盤」と呼ばれているが,原理は「四つ玉ソロバン」である.
  宋(960〜1279)元(1271〜1368)時代になると,商業が盛んになり『算学啓蒙』(朱世傑著・1299年)の出題問題に多くみられるように,1斤=16両とする「斤両法」の計算が必要になった.因みに,1斤が16両というのは,四季の4と四方の4を掛け合わせた数をあらわしているという.≪薮内清著『漢書・律暦志』≫
  それまでの計算用具としての籌(算木)を,利便性から固定化するとき,珠に軸を通して16進数に適応させ,1桁に1〜15の数表示ができるように「天二地五のソロバン」が生まれたのである.

3.日本のソロバンの推移
  このソロバンがわが国に伝わったのは,いつ頃か今もってわからない.ただ幾つかの史料からみて,16世紀中葉であろうと推測されている.
  その後,江戸時代を通して(一部を除いて)改良はなされず,伝来の姿そのままの「天二地五」であったが,明治になってようやく天珠を一顆減らして「天一地五」のいわゆる「五つ玉ソロバン」に変身したのである.
  しかし,十進数に合わせながらも「五つ玉ソロバン」は,1桁に十までの表示ができるため,十の表し方が2種類(百は3種類,千は4種類……)あるのである.
  それでも,当時の割算は「割り声」を使った『帰除法』であったので,五つ目の珠(底珠という)を利用することもあった.
  昭和になって,当時の文部省は「インド・アラビア記数法」と一致することを最大の理由として,『尋常小学算術』第四学年児童用下の教科書(昭和13年・いわゆる緑表紙)の編纂にあたり「四つ玉ソロバン」を推奨した. 
  珠算界としては,この変革にあたって相当の議論を重ねた結果,徐々に受け入れて「四つ玉」に移行していった.割算が『帰除法』から『商除法』に切り替えられたのもその頃で,昭和二十年代末のことである.
  端的にいえば,ソロバンはこのように「中国で,四つ玉に生まれ.約二千年の時を経て,日本という外国で,もとの四つ玉に回帰した」のである.

4.わが国でソロバンが普及した理由
  このような諸改革(形体面・技術面)が,今日の珠算と珠算式暗算の発展に大きく結びついたのであるが,日本でソロバンが普及した理由や珠算の優位性などを考察したい.
(1)「九九」があった
   奈良時代に伝わった掛算の九九は,知識層はもちろん広く庶民にまで普及していた.これは成り立ちが簡単で,言語上からも憶えやすく,リズミカルで唱え易かった.
(2)文字としての数表現
   漢数字は記録数字であったために,記録してそのまま計算をするには困難をきたしたので何らかの計算用具に頼らざるを得なかった.
   しかし,幸いにも中国から移入したこの数表現が十進法であり,基数字(一から九まで)と位格命数(十百千万億など)で成り立っていたことは,アラビア数字へ移行が比較的容易であった.
   もし,ギリシアでの10=ι・20=κ・30=λ・40=μ・50=ν・60=ξ・70=ο・80=π・90=ρ・500=φ,ローマ数字の50=L・500=D などのような文字が中国にあったら,すんなりとは受け入れられなかったかも知れない.
(3)言語としての数表現
   日本の数の唱え方は,上位から下位へ位格ごとに一桁ずつ唱える直接法であった.英語では,例えば十三を3+10(thir・teen),三十は3×10(thir・ty).十九は9+10(nine・teen),九十を9×10(nine・ty)と唱える.
(4)軽便であった
   日本人は,携帯に便利なように小型化したり,軽くしたりするのが得意なので,ソロバンの製作に職人の技術と勘を生かすことができた.
(5)日本人の特性に合致した
   @ 農耕民族の特徴として,手先が器用である.
   A 「せっかち」「完全主義」の性格が 改良工夫につながった.(鉄砲・時計など)
   B 右利きが多いことが,ソロバンの運算に適していた.
   C 右手を使うと,左脳を刺激して数的能力の向上に有効である.
   D ソロバンへの布数が,アラビア数字の位取り表記と一致していた.
(6)識字率が高かった
   すでに漢字を咀嚼していたので,情報源が中国であった当時としては,バイリンガルであった.その上,漢字(真名)から片仮名・平仮名を発明したことにより,低年齢でも書物が読めて,文章表現も可能であった.
(7)ソロバンと数学の伝来時期が合致した
   信長の「楽市・楽座」の設置により,領国を越えた商業の発達が迅速な数処理を必要とした時期であり.その後の全国統一により納税などの計算が頻繁に行われた.
   そこへ伝わった数学の内容が,当時の日本人のレベルより少し高度であったが,十分理解できる程度であった.
(8)操作と数表示が効果的であった
   @ 珠が回ることにより操作をスムーズにした.(ローマソロバンの珠は回らない)
   A 「ご破算」を,天珠を上げる動作で行う.(ローマソロバンでは、上下全部の珠を下げることでゼロを表した)
   B 明治以降,改良を加えた.
    *珠の大きさを指に合致させた.
    *構造をシンプルにした.(天珠を1顆に地珠を4顆にした)
 

5.珠算式暗算について
(1)珠算式暗算の優位性
  @ アラビア数字の十進位取りに合致する。
  A 2桁・3桁10口以上の数の加減はもちろん,2桁×2桁以上の掛算が,正確・迅速に計算できる.(これは珠算式暗算のほかには,考えられない)
  B 0がハッキリ認識できる.
(2) 珠算式暗算の実体
  暗算については,心理学・大脳生理学の先生方が種々調査研究しておられる.
しかし、珠算式暗算は「脳裏にソロバン珠の像を画いて計算するのである」については、元徳島大学教授 小田信夫¹氏のつぎの説が最も的確と思われるので,掲げてみたい.「…略…珠算家の中には,この像を残像²(after image)といっている人がある.いかにも,現実に生き生きと感覚される像である点において残像に似ている.だが,像の大きさや投写の位置が一定していて,残像の法則たる『エムメルトの法則³(Emmert’s Law)』に従わないし,また,残像は外界刺激が停止した直後に経験される現象であるのに,この像は,いつでも意のままに構成されるので,これを残像ということはできない.
  また、この像を表象像⁴(presentation)であると考えている人もある.たしかに,主観的に自由に写像することができ,その大きさについても,エムメルトの法則に従わない点など表象的特質はもっている.だが,さきに述べたように,生き生きとして体験せられ,残像に近似した特質を有する点において,普通の表象像とは区別されねばならない.
  すなわち,この像は,残像のごとくいきいきと感覚される像であると同時に,表象像のごとく主観的構成の性格を担っており,これらと同様,一種の記憶像(memory image)であり,いわゆる直観像(eidetic image)である.直観像素質は,9〜14歳にもっともあらわれ易いとされている.…略…」
≪雑誌教育科学・算数教育『暗算と筆算』明治図書出版≫
註1.小田 信夫(おだ のぶお)
  元徳島大学教授 教育心理学専攻 昭和58年7月3日逝去(83歳)   岡山県出身 東京文理大(現筑波大)卒 滋賀師範教授を経て24  年徳島師範(現徳島大)教育学部教授 40年退官 わが国で最初  に死後再審が確定した「徳島ラジオ商事件」に疑問を持ち 科学  者の立場から無実を追求したことでも有名.
註2.残像(after image)
  外部からの刺激が消えても感覚に残っている像のこと.残感覚.  主として視覚についていう.例えば,夕陽などを見つめた後に起  こる感覚現象.
註3.エムメルトの法則(Emmert’s Law)
  残像の大きさは,それが投影される面までの距離によって,はな  はだしい影響をうけるもので,距離に比例して増減する.
註4.表象像(presentation)
  知覚に基づいて意識に現れる外的対象の像.対象が現前している場合=りんごを見たとき(知覚表象),記憶によって再生される場合=りんごを思いだしたとき(記憶表象),想像による場合=何かを空想したとき(想像表象)がある.感覚的・具体的な点で概念や理念と区別される.
註5.直感像(eidetic image)
一度見たことのある風景や事物が,再びほとんどそのままハッキリと認知される現象.また,その心像.幼児や未開人に多くみられる.


6.珠算式暗算を可能にした要件
 (1)「数図」
   古来多くの数学教育学者が,数の認識の補助手段として,いろいろな数図を考えた.
  サイコロの目のような表し方で数を表示した図で,
   例えば ・ ‥ … ‥‥ とか ・ : ∴ :: などである.
   @ 各数の区別を,明瞭にすることができる.
   A その形象を心像として把握させて,明瞭な数観念を形づくらせる.
   B さらに,これらに基づいて,計算の基本原理を内在的に直観させることができる.
   いくつかの数図をみても,1から4までは,どのように配置しても,容易に数を認識することができるが,5になるとどのように工夫しても,難しいので,一般的には,数を瞬時に認識できる限界は4であるといわれている.
   学者によれば「動物が識別することのできる数は,3ないし4で,人間も他の動物と変わったところはない」ということである.
また,シュメール数字もローマ数字もその表記方法をみると「同じ数記号を並べるのは,3個までである」という.ここでは限界を3としている.
   ソロバン数図は,数認識の限界を4として,五玉は形としてではなくて「ある・ない」の区別によって,1桁の数を認識するという理想的な数図といえるのである.                
 (2)一玉については,心理学の「知覚」でいう『近接の要因』に添っている.
  知覚の形態化が成立の条件  ≪西川好夫著『図説心理学入門≫ 
@.近接の要因 A.類似の要因 B.良い形の要因 がある.        
    ◎ 近接の要因                              
    他の条件が同じならば,近接しているものは,まとめて知覚される傾向が大きい.
 A図 ⇒    |  ||  ||  ||  ||  |
          イ   イ ロ   ロ ハ  ハ ニ  ニ ホ  ホ
 B図 ⇒     ・   ・ ・   ・ ・    ・ ・     ・ ・  ・
    上のA図の線やB図の点を見たとき,イとイ、ロとロ、ハとハ、ニとニ、ホとホが一つのグループであるのに,近接しているイとロ、つぎのロとハなどの線や点が一つのグループとして見える.

◎ 数学の歴史書で「ローマの溝ソロバン」を目にすることがあるが,大英博物館所蔵ソロバンの写真掲載が多く,仄聞するところによると,大英博物館ではレプリカだということで,処分したとのことである.現存するものとしては,ローマ国立博物館・パリ国立図書館・ドイツ博物館所蔵などが挙げられるが,確実に見ることができるのは,パリの国立図書館である.
   「ローマ式溝ソロバン」の構造は,上の玉1つ・下の玉4つで,今広く使われている「四つ玉ソロバン」にそっくりなので,これを見るとなんとなくうれしくなって安心する.ところが,その操作方法は根本のところで異なるのである.
    @「ご破算」は,五玉も一玉も全部下げた状態で「0」を表す.
    A「布数」は,上がっている玉で数を表すのである.
     例えば,8を布数する場合.
ローマでは,上の玉一つと下の玉三つを動かして表示するのであるが,上の玉と下の玉が離れているのである.(このような例は,韓国の『九数略』に一件,目にするのみである.)
日本では,ゴハサンをして全部の玉を梁から離して0とし,上の玉をさげて下玉を三つあげて表示するので,当然ではあるが,上の一つと下の三つをくっつけて表示される.
   このことは,「近接の要因」からみて大変重要なことと私は考える.
   もし,日本のソロバンもローマのような布数法であれば,操作がスムーズにできないばかりではなく,おそらく珠算式暗算の習得は困難で,現在のようにひろく普及することはなかったであろう.
(3)「ソロバン玉」という具体的対象がある.
   ソロバンという具体的な対象物を媒体としての「ソロバン数図」に裏打ちされているので,脳裏に写像しやすい.特に,現在一般に使用されているソロバンと同条件であることが重要である.
  @ 日本のソロバンの玉が,菱形であるので一玉の数の区分がつきやすい.
  A 玉の色彩が,一般に柘植(つげ)玉の黄色,または樺玉の明るい茶色であることによって写像がしやすい.
  B 玉の大きさも、暗算の桁幅に影響が考えられる。

以上.種々の角度から日本の「ソロバン」と「珠算式暗算」の優位性について考察を加えてみたが,珠算人の視点ということで我田引水の感があると思うので、ご批評ください
posted by そろまんが at 14:50| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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