2010年07月25日

『同文算指』の引き算

『同文算指』の引き算

◇ 中国の算術書に『同文算指』(1614年)がある.
 中国に西洋の数学を伝えたのは.ローマ学院で学んだイタリア人でゼスイット会士・マテオリッチ(Matteo Ricci 中国名・利瑪竇・1552.10.6〜1610.5.11)である.
  マテオリッチは1583年中国広州の西方にある肇慶(ちょうけい)に入り伝道に従事した.
  ドイツの数学者クラビウスに学び,クラビウスが撰した数学講義をいくつか中国にもたらした.徐光啓とともに『幾何原本』(1607年)全六巻を漢訳し,李之藻とともに『同文算指』(1614年)を漢訳している.この『同文算指』は,主にクラビウスの『実用算術概論』(1583年)と『算法統宗』(程大位・1592年)にもとづいて編訳されたものである.これがヨーロッパの「筆算」をはじめて紹介し,西洋数学が中国へ伝来した最初であるといわれ,後の算術に大きな影響を与えた.ところがわが国に舶来して後どちらも寛永七(1630)年の「御禁書目録」に挙げられている.
  しかし,その後の算学者梅文鼎・方中通などは「西洋の学問より,中国の学問の方がすぐれている」という先入観があったらしい.明治維新時の和算家の考え方に似ている.

◇ カジョリ著・小倉金之助訳『初等数学史 下』に掲載されている「イギリス算術教授法」として,つぎのような記述があった.(抜粋)
   「ドイツでは“オーストリア法”と呼ばれるもので,これはオーストリア人が最初に採用したものである.例えば 76−49 にあっては“9と7で16,5と2で7”と唱えるのである.実際7から1を引く代わりに、4に1を加えることは,ルネッサンス時代には普通の方法であった.アメリカのある代数教科書では,“オーストリア法”の原理による減法を説明している.」
  この中で「実際7から1を引く代わりに,4に1を加える」の部分が理解できなくて,疑問に感じていた.
  『月刊 言語』Vol.23 No.10所載のエッセイ『日本の算数の不思議」で,フランス・ドルヌ氏(France Dhorne:日仏対照言語学)が,  
  81−65=16 の計算の場合を,
「1から5を引くのは不可能なので,1のけたは10の桁に 『10の単位を一つ貸してくれますか』と頼みます.10の桁は『はい,どうぞ』.1の桁の計算(11−5=E)を済ませたら,1の桁は10の桁に『はい,ありがとう
』と言い,借りた単位を返します.そうすると,引く10の桁の6は,貸しておいた1単位分増えます(60+10=70).80−70=I その結果 81−65=E+I=16 となる.」
  と説明しているが,やはり理解できない点があり疑問が残った.
◇ 最近,中国の筆算の歴史などを調べている中で『同文算指』に目を通してみた.漢文であるので不安があるが,「減法」を詳しく見て,前述の疑問が解けたのである.

 まず,『同文算指』の特徴を列挙すると,
(1)大衍式として,単数から十・百・千・万・億(万万)・兆(万万億)京まで「万万進」で記載している.
(2)加法.現在われわれが演算している縦書で漢数字を使用しているだけである.
(3)乗・除法はつぎの通りである.
  4300678×600394=2582101267132    1623149÷289=5616…125
         四三〇〇六七八         一       
          六〇〇三九四      一 一 二
        一七二〇二七一二      二 五 四 一
       三八七〇六一〇二       陸 七 〇 六
      一二九〇二〇三四        四 弐 八 八 二 
     〇〇〇〇〇〇〇〇         五 六 参 九 七
    〇〇〇〇〇〇〇〇        壱 八 〇 七 七 五 五                           二八九
   二五八〇四〇六八         壱 陸 弐 参 壱 肆 玖( 五六一六                     一二五
   二五八二一〇一二六七一三二      二 八 九 九 九 九  
                           二 八 九 八 八
                           二 八 二
                             二

  ◎乗法は,上記のように漢数字を使用しているが,現行の計算と同じである.
  ◎除法は,中世イタリアの「ガレー法」と同じであるが,末尾の分母・分子はガレー法と上下が逆である.この方法をイギリスでは「抹消法」という.
 (5)九去・七去検算法が出ている.
 (6)1桁の掛け算・「余乗法」が出ている.
  9×8=(10−1)×(10−2)=90−20+1×2=72
  又は  80−10+1×2=90+80−100+1×2=72
  8×8=(10−2)×(10−2)=80−20+2×2=64
又は           =80+80−100+2×2=64
  7×6=(10−3)×(10−4)=70−40+3×4=42
又は  60−30+3×4=70+60−100+3×4=42
3×3=(10−7)×(10−7)=30−70+7×7= 9
又は  30+30−100+7×7= 9
  が記載されているが,これは「指算」に通じていると思う.
◇ では本題の『同文算指』の「引き算」の演算方法を示してみよう.
  「第二図 亦係以少減多但中有上数小下数反大者須立借法 」
とあって「少数から多数を引く」例題として
  4 500 026 304 827−2 929 034 567 892= 1 570 991 736 935  が記されている.
四 五 〇 〇 〇 二 六 三 〇 四 八 二 七
二 九 二 九 〇 三 四 五 六 七 八 九 二
一 五 七 〇 九 九 一 七 三 六 九 三 五
            ↑         ↑ ↑ ↑ ↑
           ㋭         ㊁ ㋩ ㋺ ㋑
(1)下位より1桁ずつ計算する.
(2)1桁毎の演算方法が全桁にわたって示されているが,抜粋してみると,
㋑ 7−2=5
㋺ 二不能減九借作一十二減九得三進位還
   2から9が引けないので,10を付けて12から9を引いて3残る.
㋩ 因前借過一今作八減九又不足仍借作一十八減九得九進位還
   上数の8から(下数+1の)9が引けないので,10を付けて18から9を引いて9残る.
㊁ 因前借過一今作四減八又不足借作一十四減八得六進位還
   上数の4から(下数+1の)8が引けないので,10を付けて14から8を引いて6残る.
㋭ 前借一今作〇減一〇無可減借作一十減一余九進位還
   上数の0から(下数+1の)1が引けないので,10を付けて10から1を引いて9残る.

このように,われわれが学んだ引き算の考え方と異なっていることを知って驚いた.
そこで,私蔵の「筆算」関係のもの12冊調べてみたが,この考え方の書は、『同文算指』のほかにはつぎの3冊であった.
1.『暦算全書・筆算』(梅文鼎・1693年)数を漢数字の基数で縦書き.
2.『筆算提要・完』(伊藤慎蔵訳・弓場五郎校訂・1867年)
3.『小学筆算教授本・巻一』(米国 タウビス著・山田正一訳・1873年)
 2.3.ともに翻訳本ということから西洋ではこの方法であろうことが推測できる.
 フランス・ドルヌ氏のエッセイにあるように,フランスではこの方法であり,フランスの人にも確かめた.ブラジル人,チリ人は日本と同じであることがわかった.
 われわれが習った筆算では,借りた1を被減数から引いて演算するが,これは古くからの伝統である「算木」「ソロバン」によるものであろう.また,西洋の方法は,西洋諸国における,「つり銭」との関連が想像できる.(どちらが先かわからないが)
 このような微妙な考え方の違いがあり,400年以上も経てこのようなかたちで確認できたことを愉快に思った.
posted by そろまんが at 16:26| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月21日

乳井 貢と『初学算法』

乳井 貢と『初学算法』

          
 先年「青森地方珠算史」にて、≪乳井 貢≫の『版籌』なるものを知りました。
 その「算木・そろばんを使用しない特別な算法を説いたもの」という言葉に興味をひかれましたので、青森の佐々木信一先生にお尋ねして資料をいただきました。
 これまでの私の≪乳井 貢≫についての知識は、「珠算史」の中で「四つ玉ソロバン」を提唱した人として単に名前を知っている程度であったのです。
 佐々木先生からいただいた種々の資料によって、≪乳井 貢≫のことを徐々に知ることができました。
 年表によると乳井は「大坂詰め」をしたことがあるということです。たまたま私の住まいが、江戸期「天下の台所」といわれ「一手(ひとて)千両の華が咲く」と謳われ、「蔵屋敷」があったといわれる「大坂の堂島」から2,3キロの地点ということで、親しみを感じます。
 平成24年には≪乳井 貢生誕三百年≫になるということで、その著『初学算法』や『観中算要』『版籌』を通して乳井 貢の主張などを分析してみたいと思います。

1.≪乳井 貢≫の人物像
まず、乳井 貢の人物像を、いくつかの資料から探ることにする。
(1)【東奥日報より】(平成4年2月3日)
 にゅうい・みつぎ 正徳二年(1712)〜寛政四年(1792)
弘前藩士、7代藩主津軽信寧に重用され1753(宝暦3)年1月勘定奉行、55年12月に財政の最高責任者・元司職となる。
 宝暦の改革では、@行政機能や権力の一元化A耕作地の調査、整理B士分取り立てを見返りに商人を活用…などを行った。中でも「標符発行」が最も注目に値する。他藩では、貨幣の代わりに藩札という札を使うケースはあったが、標符のような通帳は例がなかった。
 儒学者の乳井にとって、身分相応を前提としつつも生活物資・富の平均再分配化を図るという自らの思想の反映でもあった。
(2)【青森地方珠算史より】(昭和55年10月26日)
   名は 初期  彌三左衛門    中期  市郎左衛門(元文元:1736)
後期  貢 建富(建福)
 弘前藩七代藩主津軽信寧より、藩財政立て直しの功によって
   「いく年も 四季の間耐えぬ 貢かな」の発句に添えて下名さる。
 貢は経世家であるが数学にも優れ、二十歳の頃には『識量問答』(1785年頃)を著した。その内容は中学の数学程度である。
 川原平に牢居中の安永十(1781)年正月、川原平村の虎蔵に与えた『初学算法』(横本)がある。又、『観中算要』(1817:貢の子孫によって出されたものであろうー佐々木信一先生)がある。前者は後者を平易にしたもので、共に数学の初歩を説き実用を主としている。『円術真法方円伝』は、円と正多角形の性質を述べている。ほかに『町見術』もあるが、天明五(1785)年の 門人 工藤清助の序(この稿では省く)のある『版籌』は、算木、そろばんを使用しない特別な算法を説いたもので、算法としては珍しいものである。
専門の算家ではない、乳井 貢は、「算書」のほか、『国制条目』『五蟲論』『津軽名臣伝』『深山惣次』『可楽先生詠歌字徳敬』などを残した。
(3)年  表 【乳井 貢先生小伝より】
1712(正徳2)  ≪乳井 貢≫ 誕生
1714                       ≪凶作≫
1721                       ≪飢餓≫
1722                       ≪飢餓≫
1731〜32  『識量問答』刊行 
1735  1/15 御手廻五番組 見習
1736  9/15 家督相続(百五十石)  11/11 小姓組  市郎左衛門に改名
1738     『国制条目』刊行 
1749  4/7 近習小姓小納戸帯御用         ≪凶作≫
1751    長病により役御免願
1752  3/28 御手廻五番組  8/28 寄合席
1753  1/11 勘定奉行
1755   江戸詰 12/23 元司職(財政の最高責任者)御側帯御用席 ≪凶作≫ 
1756   入部  9/ 「標符(諸品通)」発行 11/1 「貢」という名を拝領
1757  3/3 禄 千石 家老職 7/ 「標符」停止 9/ 大坂詰  ≪不作≫   
1758  2/  下国  3/16 下着  3/17 退役  7/3 家召上、三上屋敷預
1768  6/14 預御免
1773                        ≪旱魃≫ ≪時疫流行≫ 
1775                        ≪疫病≫
1776                        ≪不作≫   
1778  9/1 勘定奉行(知行百五十石)
1780  6/3 役御免 知行召上の上 川原平村牢居
1781     『初学算法』著作
1783                        ≪大凶作≫
1784  4/15 牢居御免               ≪大凶作≫
1785  8/12 生涯五人扶持  『版籌』刊行
1792(寛政4)  4/6 死去 八十一歳
1817     『観中算要』刊行
(4)乳井の業績の一つとして、『日本災害誌』という類の書物には、いつも津軽が困窮した事が記されてあり、また、この年表にも示すように、「当時の奥羽地方は、飢餓・大凶作がうち続き、乞食が殖えて、飢渇に呻吟する者が小屋に何千何百と転がるほどの惨状を呈したという。しかし、勘定奉行となった乳井は、藩政の改革を積極的に推進し、津軽藩内からは餓死者を全く出さなかったという。」【青森地方珠算史】
(5)「乳井 貢」の碑文(青森県中津軽郡西目屋村川原平)
津軽ノ地タル山高ク水長シ此所ニ乳井貢先生ノ出デシハ洵ニ偶然ナラズ先生和漢竺ノ学ヲ修メ就中易教ノ奥義ニ達シ心ヲ経済ニ傾ケ著述頗ル多ク而モ堂々烈々タル自説ヲ加ヘテ其ノ意ヤ恍洋其ノ言ヤ緊切後進ヲ導キテ倦マズ津軽藩勘定奉行トナルコト両度ヨク時難ヲ済ヒ奮弊ヲ革メ外ヶ浜ノアイヌ族ヲ平民ニスル等達見ト治績ト嚇々タリシガ後謫セラレテ川原平ニ居リ里人ノ蒙ヲ啓キ山川ノ利ヲ通シ恩沢四方ニ溢レシガ寛政四年四月六日齢八十一ヲ以テ豪毅卓抜ナル生涯ヲ終レリ今其始終ヲ稽考スルニ先生ノ如キハ実ニ稀有ノ人傑タリ長谷川進氏目屋村出身ノ故ヲ以テ先生ノ遺風ヲ長ヘニ伝ヘ常ニ世人発奮ノ資ト為サントシ昭和九年十二月乳井貢顕彰会ヲ作ル委員之ヲ賛シ遺著ヲ刊行シ且石ヲ目屋沢ニ求メテ茲ニ敬仰記念ノ碑ヲ建ツ即チ此由縁ヲ刻シテ後人ニ示スコト爾リ
 昭和十年六月        裔孫 乳井龍雄 題額  中道 等 撰並書

2.『初学算法』について
 当時の算学について、乳井が多くのことを主張している『初学算法』を私流に考察してみたい。

(1)「初学」について
  『初学算法』の名称について考えてみたい。
私蔵の「和算書」に何冊かの「写本」があって、その中に『八橋流算法初心抄(57丁)『関流算機(13丁)』『八算見一(5丁)』『初学算法最上流(16丁)』があります。
  いずれも、白紙の和紙で和綴じ(紙縒りでの仮綴じ)であって、当時も和綴じの帳面が市販されていたものであろう。
  中でも、最後の『初学算法最上流』は、銀色の匡郭(冊子本で、本文の四周を囲む外郭)が摺られているのです。この算学塾では、写本用に匡郭(きょうかく)のみを印刷した「用紙」を備え付けてあったのではないかと考える。
  「野口泰助」氏の「和算書について」(平成9年)
  伝授本にも師匠が元本揃で所持していて、標題と匡郭のみ刷った用紙に段階的に巻之幾つと書き入れ弟子に内容を少しずつ写し与えた物もある。匡郭のみ刷った用紙は自分用の原稿紙にも使用、『算法通書』なども刊行前に匡郭のみの用紙に筆書きしている。
  また、算書の中にも、『算元記』(藤岡茂元著、明暦三:1657年)が、寛政十二(1800)年に『初学算法記』と改題して再版されたとあります。
  このように、当時は「初学」という言葉がよく使われて、学問などを学び始めたばかりの事、またはその人をいったのである。
そこで乳井の『初学算法』であるが、奥書に「川原村 虎蔵殿」とあることから、貢が二度目の幽閉中に村内の文字を知らない里人に「漢学」や「算術」を教えたときに使用したものであろう。
  しかし、前述の写本からみても、乳井の『初学算法』もこの書のタイトルではなく、「初学者に教える算術用の入門テキスト」ではないかと思う。そして、主張の内容から推して虎蔵という個人のためだけに作成したものではなくて、入門用の教本として何冊か作成した中の一冊でなかったかと思う。
  なお、別稿の『版籌』は、門弟 工藤清助が序において「…今は乳井先生がこの書を著す。…宮崎氏にこの梓を請う。梓行すれば数を学ぶ徒は争って之をたよる。…」とあるので、多数を版行したことは確実である。

(2)「算勘の重要性」について
   『数道初術前集』(東房軒著=田中佳政の門人、元禄十六:1703年)に、
  「修行の大意十か条」があって「数の道は学ばずともよいかとの問いに対し、怒って曰く、上古君臣の差別もなく、文字も無いときはそれでも良かったであろうが、五輪の道、礼儀の法、文字が作られてから諸道も興ったのであって、人と生まれて飢寒からず渡世ができる。尊きと卑しきの違いこそあれ、それぞれの数学があるので学ばねばならぬ」とある。
 『初学』で乳井は、「夫 数は士の算有り 農人の算有り 職人の算有り 町人の算有り、別而国を富し 民を饒にし財用を足らしめ 国主に代り上に立つ人は必学び知べき事也、軍法にも算多き者は勝、算少なき者は負ると有り、算は則度量を云、度量は数なり」といい、 『版籌』では同様に「夫 数は学ばずんばあるべからず、人生まれて死に至るまで一日として数を云はざることなし、上は天子の尊きより、下は庶民の卑しきまで時々数の用なきこと能ず」と、算に明るいことの重要性を説いている。

(3)「河図・洛書」について
   河図・洛書の図を掲げて「孔子といへる聖人 易の書物に書付 鬼神を行ひ変化をなすもの」といって、数理の根元としている。
   この二つの図は、易や方陣の根元ともいわれてよく見受けるように思われるが、算書の掲載は意外に少ない。
中算書・朝鮮書・和算書で「河図」「洛書」の図が掲げてあるものは、多くの算書の中でも私の目についたのは、つぎの算書であった。
   中算書 『続古摘奇算法』(楊輝著、1275年)「洛書」(後世の「河図」)のみ掲載。※この「河図・洛書は、南宋の時代に名称が逆になり、昔の河図が洛書、
   洛書が河図となった。」(薮内清著『中国の数学』)
『九章詳註比類算法大全』(呉敬著、1450年)
『算法統宗』(程大位著、1593年)
       『数理精蘊』(梅殻成 他著、1721年) 
朝鮮書 『九数略』(崔錫鼎・17世紀末)
和算書 『新編算数記』(奥田有益著、天和三:1683年)
『頭書算法闕疑抄』(磯村吉徳著、貞享二:1685年)
『数学端記』(田中佳政著、享保二:1717年)
『初学算法』(乳井 貢著、天明元:1781年)
『算法稽古図会大成』(著者不明、天保二:1831年)
『真元算法』(武田真元著、天保十三:1842年)

(4)「命位」について
    数位の名として、
    一、十、百、千、万、十万、百万、千万、億、十億より上千万億迄  万々億を兆と云   分、厘、毛、糸、忽、微、繊、沙  を記し、
    「兆より上、沙より下、有りといへども今日に用なし、此故に是を畧して記さず。若し上達して知らんとする時は諸書を広く見る故おのづから知り得べし」といっている。
   「万々億を兆」としている「算書」を列挙してみると、
    中算書 『孫子算経』『数術記遺』『算学啓蒙』『算法統宗』
    和算書(1781年以前)『因帰算歌』『新編諸算記』『数学端記』『算法勿憚改』
があげられる。
乳井は数学を『算法統宗』『暦算全書』『塵劫記』等多くの算書から学んだと思うが、「河図・洛書」の掲載と「命位数」からみて、郷土の先人である田中佳政の『数学端記』を、一番に参考にしたことは間違いないであろう。

(5)「九々」について
    この時代に「総九々」を使用しており、「割り声」との混乱を指摘(六五八十の二と六五三十)し、「六八四十八引と云ふべし」から「亀井算」も目にしていたであろうということが想像できる。亀井算の「九九合数」は純九九の45句で、「九帰法」の中に、「五八作 六八二残(五ヲ八ニシテ 六八二Aノコス)」がある。
    『数学端記』では、九九のことを「四十五因数」と呼び、算木を改良した「龍籌」という算器を作って、乗除ともに算木とおなじ方法で計算している。なお、割算は商除法である。(これが、「版籌」の考案につながったのであろう。)

(6)「定位法」について
    『初学算法』『版籌』『観中算要』ともに、乳井が重要視しているのは、「定位法」である。『版籌』は(別稿で後述する)現在でいう「筆算」なので方法が異なるのは当然であるが、『初学算法』に記されている方法は、「定位布数法」である。
    「定位布数法」とは、私も使っている方法で、「答が盤面の定めた位(現在は一位)にくるように、あらかじめ考えて実を布数する定位法」である。
    『珠算算法の歴史』によると、「当時の商人に必要なことは、ただ、数値を知るということのみであった。」とあるように、定位法にふれているものは少ない。あっても「実・法の首位で決定する定位法」を述べているものが多い。
そんな中で『算梯』(著者・刊年未詳:17世紀末?)のみが、「珠盤進退定位」という名でつぎのように述べている。
        先ズ位ヲ進退シテ乗ズ
        先ズ位ヲ進退シテ除ス
          乗除ハ法分位ナレバ実ハ動カズ
          乗ハ法一位ナレバ実一位進ム
            除ハ法一位ナレバ実一位退ク
          乗ハ法厘位ナレバ実一位退ク
         除ハ法厘位ナレバ実一位進ム

◎ 例 題
  割 算(帰除法)
例1. 2,250,000俵÷180=12,500俵         百十
     実の首位の位から、法の桁数だけ       万万万千百十一
     右へ移動した位から布数する。        *一十百
     答が万の位から125となるので、        →→225
     答は、 12,500俵  である。     答    125
例2. 130,000石÷0.65(6分5厘)=200,000石    百十
     実の首位の位から、法が6分なの       万万万千百十一
     で、右へ一 左に分と移動した位        *→  
     から(元に戻る)布数する。          分←
     答が十万の位から2となるので、        13 
     答は、 200,000石  である。      答 2
例3. 143,000÷0.055(5厘5毛)=2,600,000  百十
     実の首位の位から、法首が5厘な       万万万千百十一
     ので、右へ一 左に分厘と移動し        *→
     た位から布数する。             厘分←
     答が百万の位から26となるので、      143
     答は、 2,600,000 である。     答 26
  乗 算(頭乗法)
例1. 12,500俵×180=2,250,000俵         千百十
     実の首位の位から、法の桁数だけ       万万万万千百十一
     左の位から布数する。            百十一* 
     答が百万の位から225となるので、      ←←←
     答は、 2,250,000俵  である。       225
                         答   225  

例2. 8.7(8寸7分)×0.55(5分5厘)=4寸7分8厘5毛
     実の首位の位から、法首が5分な          寸分厘毛
ので、左へ一 右に分と移動した         一* 
位から布数する。                →分
答が寸の位から4785となるので、          87  
答は、 4寸7分8厘5毛である。    答    4785

   例3. 8寸×0.005(5毛)=4厘
        実の首位の位から、法が5毛なので、        寸分厘毛
        左へ一 右に分厘毛と移動した位から       一*
        布数する。                   →分厘毛
        答が、厘の位に4となるので、             8
        答は、4厘 である。             4

(7)「梁上の単位」について
    古そろばんの梁としては、「生地」「骨貼り」「紙貼り」があり。
    記入は、「陰刻」「黒漆書」「赤漆書」「朱書」などがある。
    単位は、米の容積 「萬、千、百、十、石、斗、升、合、勺、才」
        田の面積 「十、町、反、畝、拾、歩」
        金  貨 「斤、両、分、朱」
        銀  貨 「百、十、〆、百、拾、匁、分、厘、毛」
        銭  貨 「百、十、〆、百、十、文」
円 単 位 「十、万、千、百、拾、円、十、銭、厘、毛」
目  方 「百、十、貫、百、拾、目、分、厘、毛」
長  さ 「千、百、十、丈、尺、寸」
天  文 「十宮十度十分十秒十微十繊十忽」  などがあるが、
    「世間有合のそろばんは、一統俗用の為にこしらへたるもの故、桁に米金銭の名を書付置く故位の見やう致にくし、本法にあらず、書直し本数の名ばかりを書て用べし、物の名にてする時は数限り無き事なり、算する時は先物の名を省、本数の一十百千万分厘毛糸にて除乗を致し、扨其位定まりたる時米ならば何石何斗何升、金なら何百何十何両何分、銀ならば何十何貫目、銭なら何百何貫文、尺ならば何丈何尺何寸何分と一切の物の名は後にて付くべし。」と、「万千百十一分厘毛糸」を印せばよいといっている。
    注文して、せっかく苦労してやっと入手したソロバンの梁には、上記のような単位が陰刻されていたので却って不便であった。現に古ソロバンの中に陰刻した単位を削って直してあるものがある。

(8)「四つ玉ソロバン」について
    「俗用のそろばんは、五玉二つ下の玉五つにする。是何の用に立ぬ玉二つ有り、乗る時借り玉に用ゆると覚ゆる者あれども借り玉にして六より外借る事ならず、若  七より以上の数を借りる時は如何するや限りの無き事なり、夫数は一より九までのものにて九匁へ又一匁足せば十となる、十となれば又一に帰りて其所に置く事ならず上へ一と上るなり、九へ一を足てから上る馬鹿も無き者也。然れば下の玉一は末代遊びものにて用に立ず、もちろん上の五玉一は是又用なし、そろばんは五玉一下の玉四にすべし。」と説いている。
    江戸期の「四つ玉ソロバン」に関する図・絵等の史料として鈴木久男先生は、
  @『算法闕疑抄』(延宝二・1674年)壱巻34丁裏に、8桁のソロバン五珠一顆・一珠四顆(1桁のみ一珠三顆)が画かれている。(増補版にはこの絵はない)
A『算九回』(野沢忠兵衛尉定長 著、延宝五・1677年)に、天一・地四・9桁の四つ玉ソロバンの図があるが「当時、四つ玉ソロバンを使ったことを表しているわけではない」らしい。(児玉明人)
B1693(元禄六)年フランスで刊行された、ド・ラ・ルーブルの『シャム奉仕記』で、内容は「中国のソロバンが図入りで西洋に紹介された」もので、その解説に「…この道具は、しようと思えば、一方に玉を四つだけ、他方に一つだけつけることによって、もっと簡単なものにできる。こうすれば各々の棒に九まで表すことができ、しかも必要なのは、それだけだからである。…」とある。
   おそらく、ローマソロバンと比較して、単純にアラビア十進数の計算には、上一・下四で十分であるとの感想を述べたものであろう。
  C「威光山法明寺の梵鐘」東京都豊島区雑司が谷、鬼子母神本坊にある。
    旧の梵鐘は寛永二十一(1644)年に鋳造され、正保二(1645)年に消失、その後享保十七(1732)年に再鋳造された。下帯の部分に、五珠一顆・一珠四顆・6桁のソロバンが9面陽鋳されており、算盤・斗掻・枡・曲尺・銀秤が順に並んでいる。
  D『商人夜話草』(享保十二:1727年)
    挿絵に、五珠一顆・一珠四顆の12桁と13桁のソロバン図がある。

   乳井 貢は、上の内どれかを目にしたかも知れないが、「天二地五のソロバン」が一般的で全盛の時代に、天一地五を飛び越えて、現在われわれが使用しているような「天一地四の四つ玉ソロバン」を提唱した人なのである。
  従って純粋にわが国で「四つ玉ソロバン」を論理的に、しかも明確に主張したのは,
乳井 貢が最初であるといえる。

◎「四つ玉ソロバン」を主張の理由 その1
四つ玉ソロバンを主張した理由を推察してみと、当時は「ソロバンの入手」が困難であったことが挙げられる。

@高価であった。
     『ソロバンの価格考』(鈴木久男・数学史研究45号)によれば、現在の名人作の高級ソロバン程度(五万円から十万円)ではなかろうか。一方で鈴木氏は、ソロバンは『塵劫記』などの書籍より何倍も高価であったからこそ大切に取り扱われて、現在まで残っているのであろうとも述べている。(商人中心に普及し、商人にとって暖簾と同じように精神的な拠であったので、大切に扱った。現に私蔵のソロバンの桐箱に「商人魂」と刻したものと、「寶盤」と墨書きしたものがある)
  A生産量が少なかった。
     前述の資料によると、嘉永四(1851)年でも、大津ソロバンの年間販売数が470面にすぎなかったことから推して、一般には入手が困難であった。

【 余 談 】
◎ソロバン伝来の時期を考証する史料として、
   *士   前田利家の「陣中ソロバン」(1592年)
   *農   「たはらかさね耕作絵巻」(1610年頃)
*工   駿府城の「築城図屏風」(1607年)
   *商   川越 喜多院蔵「職人尽絵」(1610年頃)
   *交易  ポルトガル美術館蔵「南蛮屏風」(1600〜1610年頃)
  が挙げられる。このことから、日本に伝来したソロバンは、かつての「九九」の伝来時と同様に、比較的早い時期から士農工商の四民に広く普及していたことがわかる。
   しかし、前述の通りソロバンは、生産数が少なく高価であったことを考え合わせると、購入者は商人が主体で、個人はもちろん、和算家といえどもソロバンの入手は相当困難であったことが想像できる。
そもそも、わが国≪珠算の鼻祖・毛利重能≫が京都二条京極で「天下一割算指南」の看板を掲げたそのとき、重能は何面のソロバンを所持していたのであろうか。
また、一般によく使われる「読み・書き・ソロバン」という言葉は、いつ頃から言われるようになったのだろうか。(この言葉の最初の文献を探している)
江戸の資料によると、ソロバンも教える寺子屋が約7割を占めていたとあるが、本当にどこの寺子屋においてもソロバンの指導が行われていたかどうかは、甚だ疑問である。
何故かといえば、寺子屋入門時に親が揃える必需品は「硯箱・筆・紙・墨・天神机(勉強机のことで寺子の持込み)・盲縞の上着・先輩たちに配る菓子」とあって、机まであるのにそこにはソロバンが入っていない、簡単には手に入らなかったということである。

◎「四つ玉ソロバン」を提唱の理由 その2
   さらに、別の角度から推測を進めることとする。

@数理的観点
  ㋑十進法は、一桁は、0,1,2,3,4,5,6,7,8,9で、10以上は不要である。
  ㋺天二・地五では、二つ以上の表示ができることは、不合理である。
    例 10は3通り、100は5通り、1000は7通りの表示ができる。

A価格的観点
   玉を28.5%減らすと、その分価格が安くなる。
   前述の『価格考』によれば、昭和16年ではあるが、『算盤公定価格表』(商工省告示第833号)に「四つ玉は五分下げ」と出ている。

B用途的観点
  前述ように、乳井は「世間有合のそろばんは、一統俗用のためにこしらへたるもの故、桁に米金銭の名を書付置く故位の見やう致しにくし」といっている。

C材料的観点
  七珠算盤(中国では、天二地五をいう)を五珠算盤(天一地四)にすれば、23桁のソロバンに換算して、七珠算盤5面分(玉805顆)で五珠算盤を7面作成ができる。
   因みに、鈴木氏の『現存そろばん目録』によれば、江戸時代初期〜1700年代の32面の平均桁数は22.3桁(714÷32)である。

D製作期間的観点
   ソロバンの製造で、一番手間がかかったのは「玉」の作成で、玉の減少は製作期間の短縮に繋がる。
中国で1978年、青色20粒・黄色70粒、直径1.5〜3cmの「西周陶丸」が出土しており、「数術記遺」の「珠」は「陶丸」を使ったのではないかと想像する。私は陶器の方が丸い珠が作り易かったのではないかと思っている。

E利便的観点
  玉の減少は、重量の軽減となるとともに、全体にシンプルとなり利便性が図れる。

 以上、『初学算法』を種々の観点から考察してみました。
 乳井 貢が、算学の専門家でなかったからこそ見えた矛盾を指摘したのであって、合理主義者としての乳井 貢の真骨頂であろう。学ぶべきこと多としたい。
(『珠算史研究』第55号所載)
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2010年05月27日

種々の言葉


< 種々の言葉 >

* * *
ツルゲーネフ「散文詩」(Y.1881)に『祈り』がある。
「人間の祈りは、つまり奇蹟を祈る心だ。……どんな祈りも、結局つぎの一句にほかならない。『神よ、二二が四なることなからしめ給え!』
このような祈りこそ、人間が人間にする本当の祈りなのだ。万有の精神に祈り、至上者に祈り、カントの、ヘーゲルの、純粋にして形なき神に祈ることは、……できもせず考えられもしない。
だが現身(うつしみ)の、生ける、形ある神にせよ、はたして二二が四の定則を改めえようか?
いやしくも信者ならば、できると答えるほかはなかろう。……しかも、みずからそう信じるほかはなかろう。
けれどもし、彼の理性がこんなたわごとに反旗をひるがえしたとしたら?
そのとき、シェイクスピアが助けに来る。……『この世にはいろんなことがあるものだ、ホレーショ。……』云々。もしまた、真理の名において抗議が出たら、例の名だかい質問をくり返すがいい。……『真理とは何ぞや?』
されば……飲み、かつ笑い、さて祈ろうではないか。」
「散文詩」は、はじめ「老いたる言葉」と名づけられていた、ということである。
全編を通して理解しにくい面もあるが、反面、時代を越えてこころに響く言葉がある。
こんなところに「九九」が……と、目にとまったのであるが、原文は見ていないので、ロシアごの「九九」については、確認できていない。

 
  * * *
インド政府は(2010.7.15)、同国の通貨「ルピー」を示す記号を閣議決定した。国際的にインド経済の影響力が高まっていることから「¥(円)」や「$(ドル)」のような簡略に表記できる記号が必要と判断した。
 記号はアルファベットの「R」をベースにデザイン。Rの縦線を省き、横に2本線を加えた。ヒンディー語で「ルピー」と表記する際の文字にも似ている。
 P T I通信になどによると、政府が昨年コンペを実施。閣議では5候補からインド工科大を卒業したばかりの男性の案が採用された。【協同】(毎日新聞)
 この記号は平仮名の「き」の字の、線より突き出ている部分を取ったものに似ている。

 インドの貨幣は、1957年4月1日、1ルピー(Rupee)=100ナエパイセ(nayepaise)と改訂された。それまでは、イギリス・ポンドとともに命位数が不十進であるので計算に工夫を要して悩んだものである。(戦前の文検につづいて実務検定や競技会にも出題されていた)
 基本的には、江戸時代の貨幣の計算でも同じ方法で計算していた。
 これは、珠算の「一つの盤面で乗除の繰り返しが可能である」「余りが算出できる」「何面も置ける(番面算の利用)」などの特長を活用したといえるし、一方電卓のアキレス腱ともいえる。


  * * *
 先ごろ、「ギリシァ」の財政が破綻寸前であるという事が話題になっていた。
 日本の財政赤字はそれ以上であるという。日本の財政を論じるほど知識はないが、不安である。参議院議員選挙を前にして、種々検討して一票を投じなければと思っている。
 ところで、「数学史」では、「ギリシァ数学」から数学らしい数学が発展したとして研究されている。
 数学とは無関係であるが、新聞・テレビなどに出てくる「国名表記」に疑問がある。
 マスコミで記されているのは、「ギリシャ」である。 ところが電子辞書の「広辞苑」(第五版)では「ギリシァ」と打ち込まないと「ギリシャ」では、出てこないのである。(講談社の「日本語大辞典」でも同じであるが、二宮書店の高等学校「基本地図帳」では「ギリシャ」であった。)
 「ロシア」も「イタリア」も「オーストラリア」も、語尾を「ヤ」と打つと出てこない。
 おそらく報道関係者の間では統一されているのであろう。
 しかし、辞書と異なるのは、われわれとしては困る。こどもたちも混乱する。文章を書くときいつでも不安を感じている。
 


  * *
 大阪の地下鉄谷町線「四天王寺前夕陽丘」駅から、谷町筋を南へ約10分、天王寺西門(春分・秋分には、夕日が西門の鳥居の真ん中に沈むという)の近くに宮大工「金剛組」がある。
 「金剛組」は、飛鳥時代の西暦578年創業で39代続いた宮大工である。日本はおろか世界でも一番古い会社だという。
 その「金剛組」には、次のような『社訓』あると聞いた。
  1.儒教・仏教・神明の三教をよく考え 心得よ
  2.読み・書き・そろばんの稽古をせよ
  3.世間の人々と交際して決して出すぎるな
  4.大酒は慎め
  5.身分以上の華美な服装はするな
  6.人を敬い穏やかな言葉遣いをせよ
  7.目下の人には深い情けをかけ 穏やかな言葉で召し使え
  8.何事も他人と争うな
である。商業・工業の道だけでなく、およそ人生訓としても味わい深い言葉である。
 その中に「ソロバンの稽古」が加えられていることが嬉しい。
 因みに、金剛組の筋向かいの大阪星光学園の近くにある「浄春寺」には、和算「麻田流」の祖「麻田剛立」の墓がある。大阪の会派「大阪競算会」のルーツは麻田剛立に遡るという。


  * *
 『日本のそろばん』山崎譽右衛門・竹内乙彦・鈴木久男編(1976.9.20・暁出版)
 『図説そろばん』竹内乙彦編(平成元年11月1日・共立出版)はどちらも珠玉の大作で、われわれに貴重な資料として遺してくれました。
 その中に「天野屋利兵衛使用のそろばん」があって「元禄五壬申暦(1692年)赤穂御用所 天野屋」と陰刻されており、京都地蔵院椿寺に所蔵されているというが、私は機会がなく残念ながら未見である。
 天野屋利兵衛は忠臣蔵との関係が有名であるがそれはさておき、ここでは「利兵衛の碑」について触れておきたい。
 それは「大阪商工会議所」(大阪市中央区本町橋)の裏通り「シティプラザ大阪」の前、東横堀川の河畔に建つ巨碑である。
 「義侠 天野屋利兵衛之碑」と、題字は近衛文麿、昭和十四年八月の建立である。裏に頼春水(頼山陽の父)の撰文で「利兵衛は名を直之といい、大阪の人。大石良雄から義士復讐の密議を聞き兵器一式を揃え功績を上げた。晩年は京に入り、松永士斎と改名し、椿寺で一生を終えた。」などの意が誌されている。(『大阪史蹟辞典』三善貞司編、S61.7.10、清文堂)
 春は、桜がとても美しいので、会議所の帰りにでも立ち寄られたらどうですか。


  * *
『関孝和の人と業績』(2008.1.25)の中で、小林龍彦氏は「世界的にみて、近世数学史の史料が大量に存在する国は、日本をおいてはまず他にないだろう。しかも、驚くべきことは、それらの史料が日々新たに発見されていることにある。同時に多くの資料が無くなっていることも、また、事実である。兎に角、日本は希な近世数学史料の大国なのである」と述べている。
 『Will』(2009.1)で、日下公人氏も「日本は、世界一と言ってもいいくらい古文書がのこっているし、千年前の書物も同じ日本語で読める」と言っている。
 日本珠算連盟「珠算史に関する専門委員会の報告」(「日本珠算」52、S33.4.1)で、奥村恒夫委員長が、
「(古書や)資料は研究者の閲覧をのぞんでいる。何年間も、否何十年間も、書庫で、虫干し以外に日の目も見ないでいるものがたくさんある」と、50年も前にわれわれにシグナルを送ってくれている。
 大阪中之島の府立図書館にも「和算」「珠算」関係の書籍が相当数所蔵されている。
 私は今、体調不良で医師から外出を止められているが、早く回復したいと望んでいる。


  * *
 「7月になった。今年も半分過ぎて残すところ6ヶ月たらずになった。」
 この文章の中の「6ヶ月」は、現在の新聞・雑誌等では「6ヵ月」または「6か月」と表記されている。
 雑誌『言語生活』(昭和40年7月号)で読売新聞校閲部の金武伸弥氏は次のようにのべている。
 個数を表わす場合は「ケ」を使わない
  [例] 「六か月」(六ヶ月としない) 「十五か月」
  「ケ」は「个」(=箇が本字、个は漢代以後の略字)の代用であるが、これで「か」と読むのは現代の国語表記上好ましくない。
    「か」とよむ場合は「三か月」または、かたかなで「三ヵ月」とし、
    「こ」と読む場合は「個」の字を使うのがいい。(「箇」は制限音訓で「か」としか読まないうえ、補正案では当用漢字から削除されている:現在は常用漢字には含まれている)  [例]「リンゴ一個」(一ケとしない) 「五個師団」

 これと同じように、今ではわれわれの習ったときと異なる表現が使われているのが「分数計算の帯分数の表現」で、たとえば、「1½」をわれわれは「一か(箇)二分の一」と言ったが、今では「一と二分の一」(1½=1+½ のことなので)と言っている。
 
 小・中学生の教育に携わっているわれわれは、言葉の専門家でなくても、言葉も文字も、できる限り正しく新しい表現方法を心がけるべきであろう。


  * *
 『蘭学事始』(杉田玄白著、緒方富雄校註、岩波文庫)の解説に添付の年表を見ていて「オヤッ?」と思うことがあった。
 「寛政六(1794)年 蘭学者たちが新元会を開いて、西暦の正月を祝った。」とあったのである。
 この年閏11月11日が、西洋のグレゴリオ暦の1795年1月1日にあたったので、玄白の弟子、大槻玄沢は家塾「芝蘭堂(しらんどう)」に江戸在住の蘭学者を招いて、「新元会」と称する賀宴を開催した。これを「オランダ正月」の宴と言ったそうである。
 この起源は長崎出島のオランダ商館で催された新年の賀宴で、1683(天和三)年1月1日が最初とのことである。
 鎖国下にあった時代に、このような宴をよく開けたものである。それにしても、戦後になって「クリスマス」や「ハロウィン」を楽しむという習慣が発生した素地は、すでにこの時代あったのだ。


  * *
ここに『俳諧 武玉川』【慶紀逸編(本名 椎名件人・宝井其角の門人)寛延三(1750)年〜明和八(1771)年】がある。 所収による「ソロバン」の句6句を挙げてみよう。
  初編     節季(せっき)の息子算盤に乗(そろばんにのる)
  五編     そろ盤ヘ乗せれハ人も怖い物
      十露盤の昼から違ふ三五の夜(十五夜)
  六編     十露盤(そろばん)を伯父へ直して消たかり(きえたがり)
  八編     そろばんを息子の顔へはしきかけ(はじきかけ)
  九編     そろ盤つくて(そろばんずくで)立るにしきゝ(錦木)
 特に、最後の句は、芥川竜之介の心に通じるか。


  * *
 芥川竜之介著『侏儒の言葉』に
 「わたしは三十歳を越した後、いつでも恋愛を感ずるが早いか、一生懸命に抒情詩を作り、深入りしない前に脱却した。しかしこれは必ずしも道徳的にわたしの進歩したのでない。ただちょっと肚(はら)の中に算盤をとることを覚えたからである。」がある。
 昭和初年に書かれたものであるという。「ソロバン」について、その頃の一般の生活でも、このような認識でのみ使う人が多かったのであろうか。


  * *
 「九九」といえば、かけざんの九九のことを指します。
 なぜ、「九九」というのかについて疑問をいだき、その解明に努力されたのは、文学博士山田孝雄・理学博士三上義夫の両先生であるという。
 ある言葉や文字の集団に命名する場合で適切な語がないとき、初めのいくつかを取って名とするのが自然である。「いろは」しかり「アルファベット」(ギリシヤ文字のα:アルファとβ:ベータを合せた)しかりである。
 222年前の1788年、大槻玄澤著による『蘭学階梯』につぎのような文章があった。
  「和蘭ノ学ヲ為ント欲セバ…、彼文字ハ僅ニ二十六“アベセレッテル”ト云フ、“アベセ”ハ二十六字ノ首メノ字ヲ挙テ名トス」。此方ニテ平仮名四十八字ヲ“イロハ”ト云フガ如シ“レッテル”ハ文字ノコトナリ。此外二数量字(カズジ)九ツ合セテ三十五ナリ…」
というような通例から、両博士は、今では九九は「一一ガ一」から始まり「九九八十一」で終るが、昔はきっと「九九八十一」から始まっていたであろうと言う説を立てられた。
 たまたま大正の末、名古屋市の真福寺大須観音宝生院で『口遊(くちずさみ)』(源為憲著・970年)の写本が発見された。その中に九九表があって、紛れもなくそこには、「九九八十一」から始まり「一々一  謂之九々」で終っていたのである。
 その後『拾芥抄(しゅうがいしょう)』(洞院公賢:とういんきんかた編、鎌倉時代末期)にも見つかって、両博士の説が証明された。
 なお、中国の敦煌や居延で出土したものも「九九八十一」からだという。
 『和算以前』(大矢真一著)には、「古い時代には計算を行うのは特権階級であって、一般人に九九の成り立ちを知らせないために、わざと難しい方から唱えさせたと考えられる」とある。


  * *
 29年ぶりに「常用漢字」が196字追加・5字削除されて2136字となったことが発表された。
常用漢字とは「義務教育が終了するまでに読めて、高校卒業までに書けることが望ましい漢字」ということである.(毎日新聞)
 今回追加された中に「桁」があった。今までは珠算界では、たとえば、654,321×98,765の問題を、実6けた、法5けたと表示されていた。しかし、これからは実6桁、法5桁と表示してもよいことになったのである。
 中国における文字の歴史は、殷王朝(前16〜前11世紀)の半ば頃に始まるといい、1716年刊の『康煕字典』に収録した字の総数は四万五百余というから、驚愕の数である。
 もともと文字をもたなかった我が国に持ち込まれたのは、第15代応神天皇の御代とするのが一般的だという。(『漢字おもしろ知識』橘与志美著・白帝社・S57)
 ワープロ・パソコンの時代になって「漢字」に対する考えが、社会的に変化しつつあるが、『字通』の著者の故白川静先生によると、
「教える漢字の数を制限するのは誤りである、漢字は覚えなくても、体を通過させておけば後で役に立つのですから、吸収力の旺盛な子供のうちに、食べさせておくことが大切なんです。漢字の知識は日本語の骨、カルシウムですからね。」(1996.11.16・朝日新聞)

 われわれのソロバンも同様に「血となり、肉となる大切なもの」であることを、これからも世に訴えつづけなければならないと思う。


  * *
村上春樹著の『1Q84』がこの半年間で、124.3万部の販売を記録したらしい。
このように、レコード・CD、本などが100万以上売れることを、ミリオン・セラーという。
江戸時代の『和算書』の発行部数は、一枚の版木から摺ることのできる枚数は幕末の記録では300枚、無理して摺れば500枚という。また別の資料によれば、二百部から五百部は桜の版木を使用したが、上物で部数の多いものは、黄楊(つげ)版木を使用し千部印行することもあったという。
そのころは、書籍が千部売れると「千部ふるまい」といって大々的に出版祝いをしたらしい。
相撲や芝居などの興行場などで、客がいっぱい入ることを「大入り」といって「満員御礼」という札や幕を掲げたりして、従業員に慰労と祝いを兼ねて金一封を配る。
「大阪万博」の折、その野外劇場で実施した「万博そろばんショー」(1970.8.29)では、担当者の尽力により、予想以上の2,100人の観客を集めたので、万博協会から関係者に「大入袋」が出たという。速いものであれから40年経ったが、あの時の「大入袋」の中身はいくらだったのであろうか。五円か十円くらいかな?因みに現在の「大相撲」での大入袋には、十円玉が入れられているという。


  *
森繁久彌さんが、昨年11月10日96歳で亡くなられて、半年が過ぎても未だに時々話題に上っている。
森繁さんといえば、加藤道子さんと46年にわたったNHKラジオ「日曜名作座」であるが。
私が思い出すのは、やはりNHKラジオ番組での「伊豆の漁師の体験談」である。

「森繁さん、私は神や仏があるということを信じます」という前提での漁師の話。
若いころ、船でベーリング海峡の方へ魚を獲りに行っていました。嵐に遭って船が難破したのです。海に放り出されて、近くにあった木材につかまって一晩浮いていました。夜が明けて仲間の船が見つけてくれて助けられました。服を着替えて、温かい食べ物を貰ってホッとしました。落ち着いてフト思ったのは、一晩つかまっていた「木片」のことで、あの木片があったから助かったのだと思うと気にかかり、船長に尋ねると知らないという返事。無いとなるとますますほしくなりました。その間、船は港に向かって進んでいます。
船長に「木片を取りに帰ってほしい」と頼みましたが、聞き入れてくれません。4時間ねばった結果、船長が根負けしてかえってくれることになりました。往復8時間かけて助けあげられたところと思われる辺りに着いて皆で探してくれました。しばらく探しても見つかりませんでした。諦めて帰ることにしました。
そのとき、驚いたことに漂流している二人の人が居たのです。
神様・仏様が手を貸して助けてくれたのです。
この世には「人智の及ばない、不思議な力」があるという話です。


  *
「33554432」 という面白そうな数がある。これは2²⁵のことで、2×2×…というように2を25回掛けた数である。
私にも、父母一人ずつ二人(2¹)の親が居た。その両親にも二人ずつすなわち4人(2²)の親が居た。というように24回計算すると、2²⁵=33554432となる。
私には25代前には33554432人の人が居り、その間の人を加えると67108862人なって、その中の一人でも欠けると、現在の私は存在しないのである。(私一人についての話である)
奈良「薬師寺」元管主 高田好胤さんは、その著『母』のなかで、
「私たちの生命はこんなに大変な数のご先祖さまが、いま、私たちひとりひとりの生命になってくださっているのであるということを自覚せねばなりません。つまり、たかだか、三十年や四十年、五十年の私たちの経験だけで生きているのではなくて、大変な数のご先祖さまの喜び、悲しみ、そのた諸々の精神的、肉体的経験が、私たちひとりひとりの血の中に流れて、そのお蔭で生かしていただいているのだ、ということを私たちは知らねばならないのです。」と(三々五々・サンサンゴゴのご先祖さま)説いておられます。
話は変わって、1代を30年とすると25代は750年前となり、13世紀中葉の鎌倉時代である。資料によると、その頃の人口は684万人(3330万人となったのは明治維新の頃である)でとても3000万人には足りない。
この矛盾を考えると、途中で共有しているのである。750年の間に、何回も入り混じっているということを、私たちはこれまた自覚しなければならない。私たちは、いつか・どこかで血がつながっているということを知ると、差別など発生しないと思う。


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時々、気分転換を図るため「数独」を楽しんでいるが、ゲーム機ではないので、鉛筆と消しゴムが活躍している。筆算のことを調べると、筆算と紙などの筆記用具との関係を論じる人がいる。
1736年フランス学士院より、南米に派遣された探険家の一員、シャル・アルア・ド・コンダマンがゴムの見本を本国に持ち帰り、これを欧州の学界に紹介した。その後使用方法を具体的に研究する者が現れて、1770年イギリスの化学者、ブリース・トレイが鉛筆の痕跡を抹殺するには「ゴムが有効である」ことを提唱した。
「ゴム」の最初の用途は「字消しゴム」として使用されたという。
それが、自動車や自転車のタイヤとしてではなく、パッキングでも水枕でも、もちろん風船でもなく、「消しゴム」であったとは愉快である。


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近ごろ「検定試験」が多く実施されて、さながら「世は検定ブーム」である。
現在最も新しい「検定」は、平成22年5月23日施行の「さかな検定」(一般社団法人日本さかな検定協会)『通称ととけん』である。創設の主旨としては「“魚を学び、旬をおいしく食す”日本に生まれた しあわせを味わいつくす贅沢な趣味検定」だそうだ。
「技術検定」のほかに、「大阪検定」「京都検定」などのような「ご当地検定」、「江戸検」のような「歴史検定」、その他沢山あるが、われわれの「珠算検定」は、
第1回「珠算証明試験」昭和3(1928)年3月18日、(主催 東京市立実業学校珠算奨励会)
第1回「珠算能力検定試験」昭和6(1931)年2月15日、(主催 東京商工会議所に移管)
全国統一第1回「珠算能力検定試験」昭和19(1944)年10月15日(主催 全国商工経済会⇒全国商工会議所珠算連盟⇒日本商工会議所)で、現在の能力検定はここから数える。
「珠算能力検定試験」が日本の「検定試験の嚆矢」であることに誇りを持ちたい。


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「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」
川端康成の「雪国」の書き出しであってよく知られているので、テレビなどで耳にすることが多いが。全て「コッキョウの長いトンネル…」といっている。
これは「クニザカイの長いトンネル…」ではないか。


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会議などで「…うんぬん」という言葉がよくでてくる。これを「…うんうん」という人がいたが間違いではない。現に広辞苑には、「ウンウンの連声」とある。
ところが「うんぬん かんぬん」という人が何人かいた。これはどうだろう。「うんぬん」には「云々」という漢字はあるが、「かんぬん」に相当する漢字は見当たらない。


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首相の近頃の言葉に疑問をもつ。むずかしいことは分からないが。言葉が丁寧であればよいものではない。
一度の会見で「努力申し上げなくては…」の外に「除去」「軽減」「理解」などを耳にした。
「努力」は申し上げるものか?
特に首をかしげたのは、北朝鮮に対して、「非難申し上げなくてはならない…」(全国知事会議・22.5.27)である。漢字を読み間違うことと、どの程度の差があるだろう。


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NHKの「ラジオ深夜便」のアンカーのなかに、深夜12時の時報のまえに「まもなく0時の時報です、今日から明日になります」という人がいる。「あぁそうか」と聞き流してしまうが、よく考えると疑問を感じる。日にちが変わっても「今日」になるのであって、「明日」にはならないのである。「今」という時がないように、時は不思議なものである。


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日本では「明治維新まで科学らしい、科学はなかった」という人がいる。
実証可能な体系的な自然科学はなかったといえるが、それをカバーしたのは、「勘」であるといわれる。時として「研ぎ澄まされた勘は、科学を超える」と思っている。
その勘の持ち主として、われわれの周りでは金武昌男先生が随一と崇敬している。


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「合理的なものは、美しい」ということを、私は合理性の判断基準としている。
女性のプロポーションも、スポーツのフォームも、数学の黄金比率も、もちろん「ソロバンの指さばき」もそうである。
以前、テレビで「カッコイイより、美しくなければダメですよ」という、ブルースの女王「淡谷のり子」の一言が心に残る。

posted by そろまんが at 22:34| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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